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学んだことをまとめ、看護について考えていきます。

Practice Makes Perfect.

理論では超えられないもの 私の看護観に影響を与えてくれた人(1)

 

 

 2018年もあと少しで終わりますね。

皆さんにとって今年はどのような年だったでしょうか?

 

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私にとっては、人生で一番濃くてその分失敗をして、勉強をして、羽を伸ばして(笑)、制約があって、そして自由な一年でした。

年末であり、自分の原点や目標を振り返る時間を持ちたいですね。

 

 

 

 

さて、今回自己を見つめていた中で、私が看護師を行うにあたって、とても影響の与えてくれた人とそこから得た私の看護観を書きたいと思います。

 

 

 

 

その前に、まず “看護観” という言葉を聞いたことのない方も多いのではないでしょうか。

看護教育では良く使われる言葉で、職業観や価値観などと同じように、

看護観とは看護についての各個人の着想のことを指します。

 

看護師それぞれ自分のこれまでの体験などを元に、自らの看護観がつくられていきます。

普段の仕事の様子を見ていくと、その人の大切にしているポリシーが見え、その人の看護観がだんだんと分かってきます。

いわば、看護観は各個人の信条や心の拠り所に相互に影響し合っていると言えると思います。

 

 

ただ最初に断っておくと、

その看護観は、臨床で実際にどうこう生かせると言った画期的な全職員を律する物差しではありません。

 

あくまで個人的な看護に対する考えであり、

体系的に一貫性のとれた既存の看護理論を臨床では使用しています。

実際、全看護師の思考プロセスは、

特に汎用性が高い幾つかの看護理論に基づいて、教育を受け使用されています。

看護理論をしっかり学ばないと実践には活かせません。

 

 

最近、(本当に今更で恥ずかしい限りですが...)看護理論の本を読んで衝撃を受けました。

学生時代は別の本で学んでいたものの、理論の楽しさに気づけずサラッと目を通した程度の理解でした。

なんで学部生の時に何故もっと早くこの本を読んで勉強しなかったのだろうか…

 

理論と言うとお硬い響きでも、

実践に変換できる有効な思考ツールです。

看護理論にはこの本は必須だと思います。

 

 

 

 

看護理論家とその業績

看護理論家とその業績

 

 

 

看護理論家の業績と理論評価

看護理論家の業績と理論評価

 

 

 

 

話を戻していきます。

何故、では全体に還元しやすく共有することができる看護理論ではなく、生産的でないかもしれない自分の看護観について話をしたいのか。

 

それは、自分の看護観を形作ってくれた彼らの人生を見つめていくと、

看護に留まらず人生の生き方として提示してくれているから、

 

看護理論は重要ではあるけれども、

理詰めではとうてい太刀打ちできない領域が看護には備わっている

 

と思わずにはいられないからです。

 

 

看護観をテーマに置きながら、神学、宗教学、哲学、人類学なども踏まえて考察していきます。

それでは、私の尊敬する人の生き様をご紹介し、そこから得た私の看護観と解釈を二回に分けてお伝えします。

 

前半部分である今回は、一人目の人物の紹介を。

後半で、二人目と私の看護観などを説明できたらと考えています。

 

 

(1)ウィリアム・ケアリー(William Carey)1761-1834

 

まず一人目は、ウィリアム・ケアリーです。

 

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日本ではマイナーな歴史上の人物と思われるかもしれませんが、

イギリスを代表する宣教師、植物学者です。

「近代海外宣教の父」とも言われ、インドでのキリスト教宣教に最も貢献した人とも言われています。

 

インドの人々に福音を伝えたいと熱い思いに駆り立てられ、

生涯を通して伝道していきました。

 

 

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彼の生涯を簡単にお伝えします。

 

ケアリーは、敬虔なキリスト教徒の母親をもつ家庭に生まれ、

弟子入りをして靴屋で働いていました。

 

ただ彼は、一度少しばかりでしたがお金をくすねてしまい、

師匠とトラブルになり、自分の弱さと惨めさを思い知らされました。

そのことをきっかけに、彼は信仰を強くし、

和解後に教会に熱心に通うようになります。

 

 

勉強家で聖書も学び、村の住人からも信頼されていた彼は、

その後教会の先生になることになり、*1

結婚してイギリス社会でいう順風満帆の安定した生活が始まったように見えました。

 

ですが、彼の内には信仰の熱い炎が燃えており、満足しませんでした。

まだ福音を知らない人に伝道する必要性を強く感じていたのです。

 

加えて、本が好きだった彼は世界のこと、特にキリスト教が未だ伝わっていないインドのことを知り、

自らその地に赴いて宣教する夢を抱き、色々苦労しながら模索していきます。

 

そしてついに、家族と教区の信認を得て、

妻と子を含む親族でインドに渡り、彼の mission がスタートしたのでした。

 

 

ただ、インドの生活は想定以上の過酷さでした。

言葉や経済面、安全面においても困難を極めました。

 

宣教で必要な現地語の聖書の翻訳作業も時間がかかり、

立ち上げた印刷工場も火災に遭い燃やされてしまいます。

 

インド人の改宗した信徒が、

裏切り行為と非難され、

同じインド人に殺されてしまう悲しい事件が起きてしまったり、

イギリス政府の関係者のにも、

彼の存在が自分たちの利益に反するとして、

快く思っていなかった連中もおり、命を狙われたり、

感染症によって家族が苦しみにあったり…

 

 

とにかく、想像を絶するありとあらゆる人生の試練に襲われていったのです。

 

 

 

しかし、彼は負けませんでした。

vision を失わず、信仰によって全てを委ね、

家族と友人の助けを借りながら、黙々と仕事を続けていきます。

 

結果、複数の言語に翻訳した聖書を世に送り出し、

現地の農作物や教育の発展にも力を注ぎ、

彼の姿に感動していったインドの人々からも尊敬と信頼を集め、

福音を伝えていきました。

 

彼はインドの地で、最期までインドの人のために働いていきました。

 

 

 

 

 

 

そのような彼から、私は三つの感銘を受けました。

 

 

➀他者への温かい人間愛

 

まずは、彼の行動から、溢れる人間愛を感じることができます。

 

当時のイギリス帝国は、七年戦争(プラッシーの戦い)でフランスに勝利し、

インドの支配を広げ私物化していきました。

その任務を担っていたのが、東インド会社というイギリスの会社で、

貿易会社でありながら、行政機関としても本国から絶対的な力を譲渡されていた権力組織でした。

 

この時のイギリスは超大国と言われる世界で一番強かった国です。

原料生産地を押さえ、

産業革命によって作った大量で安い絹製品を売り込こみ、

自国の利益のためにインドの経済は破綻していきます。

 

歴史から見ると、最終的に複合的な原因によるとは言え、

この東インド会社の力でねじ伏せる政策に対し、

大規模な民衆の大反乱がおこりますが鎮圧されてしまいます。

 

インドの人はイギリスに対して、

好感どころか敵意を持っていて当然と言える立場だったのです。

 

 

 

ケアリーは、これから向かうこの地の置かれている状況も

自国の動向も分かっていました。

(ケアリーがまず最初に派遣されたベンガル地域も、すでにインドと戦争をして獲得したイギリスの領有地でした)

 

それでもなお、彼が正義とする福音を述べ伝えるという使命を果たすため

困難や批判を覚悟で乗り込んだのです。

 

そして、インドの人が心を開き許してくれるようにするためには、

態度と地道な行動をもって愛を伝えていく他ないと考え

(神学で言うならば、人間の力によるのではなく祈り信仰をもって)

宣教を始めたのでした。

 

 

 

 

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彼の素晴らしいのは、

常に住民を愛して尊重して生活に溶け込んでいった点だと私は考えています。

 

ケアリーは、伝道する時はいつも住民が理解できるような説明を心がけていたと言われています。

文字が読めない人も多くいたため、

改宗した現地の信徒の人と一緒に説教をしたり、

文字が分かる人にはテキストも同時に用いて回りました。

 

東インド会社の正反対である、己の利益を求めずインドの人々の救いを求めて彼は闘い抜きました。

搾取によらない関わりの必要性をすでに説いており、かなり当時として先鋭的な人物であったと分かります。

 

 

敵国の人間と思われても仕方のない地域で、

情報もコミュニティーも

直接人を介さなければ手には入らない状況でした。

 

しかし、そこで伝道できたのは、彼の弁論の技術によるものだけではないでしょう。

話している彼自身の内から他者を引き付ける魅力≒人間愛

(神学で言えば、それが神の力だったわけですが)

がなければ、到底成しえないのではないかと思います。

 

彼はたくさんのインド人の友人と一緒に、

食事をし、ヒンドゥー教の音楽を楽しみ、

胸襟を開いた交流を続けました。

 

 

 

 

また、彼の歴史上の功績と言うと、

インドで慣習的に行われていたサティー(sati or suttee) の廃止に尽力したことでしょう。

 

サティーとは、ヒンドゥー教徒の中で行われた儀式で、

夫が亡くなった場合、残された未亡人は生きたまま夫の火葬と共に焼死させられるというものです。

これは、ヒンドゥー教の宗教儀式とは一切関係ないのにも関わらず、

慣習として古くから成され、たくさんの親族や野次馬に囲まれて

多くの未亡人が泣き苦しみながら死んでいきました。

 

 

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残された子どもや親、見物をしていた赤の他人のそれぞれの心理状況を考えると、

言葉にできない悲しみと人間の恐ろしさに押しつぶされそうになります…

 

 

 

 

 

ケアリーはこの現状にひどく苦しみ、

何とか彼女らを救いたいと願い、根絶に向けて奮闘します。

 

 

ここでさらに彼を尊敬するのは、

彼はヒンドゥー教やサティーを行っている人々自体に対して

決して憎しみで解決しようとはせず、蔑んだりしなかったことです。

 

自分たちも同じように過ちを起こす人間に変わりなく、彼らが自らの過ちに気づき変われるようにと願ったのです。

(神学の視点で事象を述べるならば、憎しみを抱いてしまったのも事実ですが、神に祈り憐れみを求め、そして悔い改め強められることで、彼らのために祈り続けました)

 

 

看護理論家のヘンダーソンの言葉を借りるなら、

“他者の皮膚の内側に入り、自分の仲間である人間を愛する”

行為と一致していたと言えるでしょう。

 

しかも、相手に対して、甚だしい陰性感情を最初は抱いていたにも関わらず、彼は上記を実践していったことになります。

あるがままを愛をもって無条件に受容したのだと思います。

 

ただただ脱帽するばかりですね。

 

 

彼はその後、ヒンドゥー教の宗教家であるラーム・モーハン・ロイ(Ram Mohan Roy) と協力し、

ヒンドゥー教の法典にサティーの実施根拠はないことを、テキストを用いて伝えました。

また、東インド会社の上層部との政治に関する交渉もこなし、説得を試みます。

結果、二人の努力により廃止運動が盛んとなり、

1829年にサティー禁止法が成立されました。

 

草の根活動をして住民の理解を得つつ、行政にも働きかける…

超優秀でデキる研究者のお手本のようです。

 

 

 

 

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②探求心と行動力

 

ケアリーは聖書を、ベンガル語をはじめとするインド地域の言語翻訳を世界で初めて行います。

 

長い苦労と努力が実を結んだのは間違いないですが、

彼は青年時代に、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語をマスターしており、かなり語学が堪能な人だったからできた技でした。

 

ただすごいのは、彼は大学に行かず独学で勉強したこと。

靴屋の仕事をしながら、暇を見つけては本に読みふけっていました。

 

 

彼が世界宣教の志を抱いたのも、信仰の他に、本で読んだ知識・教養が影響しています。

実は、彼がインド宣教を世間に訴え、資金と支持を集められたのは、

いかに海外宣教がクリスチャンとして重要であるかを説いた本を出版し、評価を得たからです。

 

それは、1792年に出版した “異教徒改宗の手段に用いるキリスト者の研究”*2という本で、

これまで学んだインドに関する地理や歴史、神学の知見をまとめて根拠とし、彼の熱い熱い海外宣教への情熱とともに書かれています。

 

たま~に書店に並んでいる下手な自己啓発本なんかより笑、

よっぽど目を覚ましてくれる本です。

日本語では残念ながら出版はされていません。

 

原本は “An Enquiry into the Obligations of Christians to Use Means for the Conversion of the Heathens” です。

 

 

 

 

勉強家の彼はインドでは植物について勉強も始め、宣教の傍ら大学の植物学の教授にもなっています。

また、時代的にも社会構造的にも男性優位のインド社会に、

女子に対しても初等教育を行う学校も実費で設立しています。*3

さらに、はるか遠いインドに命がけで航海する行動力も、私には真似できません。

 

 

言葉でまとめると簡単ですが、彼の行動は本当に頭が下がります。

 

看護で例えるなら、

プライマリーヘルスケアの理念すら存在しない時に、

見事にそれを実行して地域を良い方向に変化させ、

母子保健や公衆衛生にも精通しているように感じます。

彼の力強さと行動にはいつもchallengeをもらいます。

 

もしもケアリーが看護師であったなら、どんな看護師になっていたのでしょうか。

 

 

 

 

 ➂原点を見失わず逆境に屈しなかった

 

 最後は、彼をそこまで突き動かしたエネルギーについて触れたいと思います。

 

熱く、力強い行動力はどこから来たのか。

結論から言えば、それは、彼本人が語った有名な言葉、

“Expect great things from God; attempt great things for God.”

に集約された信仰によるものであり、

それ以外でもそれ以下でもなく、他の言葉で置き換えて表せるものではないでしょう。

 

 

私は彼のような宗教家ではないので、

ただ、看護師の立場で思いを巡らすならば、

(千歩譲って看護学で捉えるならば)

彼はケアの真髄=本質が分かっていたのではないでしょうか。

 

 

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彼がどこまで、信念を貫いて葛藤し悩んでいたのか分かる象徴的なエピソードをご紹介します。

 

ケアリーが結婚して間もなく、まだイギリスにいた頃、

彼が海外宣教を希望した時に妻は強く反対しました。

彼女は、夫を愛していましたが、穏やかな家族との平和な日常を失いたくない、

当時は野蛮な国とも思われていた異国に、命の危険を冒してまで行くべきでないと考えました。

 

ケアリーは彼女の願うところはもっもだと理解していました。

ただ、徐々に夫の真剣な使命があることを悟った彼女は、

辛いながらも彼を信じ共に国を出る覚悟をしたのです。

素敵な奥さんだったのでしょうね。

 

 

しかし、

インドでの数えきれないほどの困難が、

彼女の精神をすり減らしていきました。

 

ケアリーはもちろん、子どもたちも励まし続けましたが、

陽性症状や適応障害、認知機能障害のような精神状態であったと日記に記録されてます。

十年以上その症状が続き、後に感染症に倒れ亡くなってしまいます。

おそらく統合失調症を患ったのではないかと私は考えています。

 

 

…聖職者であるのに、自分の妻の精神を崩してしまった、

家族すらも救えず、むしろ苦しめてしまった…

そのように、猛烈に自責の念と涙を彼が味わっていたのは想像に難くありません。

 

 しまいには、子どもも感染症と思われる病状から何人も亡くなってしまいます。

 

 

彼の家族に関する情報は少ないのですが、

荒れ狂う妻に対して何をすればよいか分からず立ち尽くしてしまったり、

子どもへの育児も十分にできていなかった様子があった、

と同僚の記録に残っています。

彼の妻の看病や家族への対応は、詳細は不明であっても、同僚とは色々意見が異なっていたのは事実のようです。

 

 

正直、彼の家庭への向き合い方については議論を呼ぶところかもしれません。

 

配偶者が病気を患い、その後亡くなってしまい

仕事も多忙で子どもの世話も満足にいかなかったかもしれませんが、

 

そもそも家族以上に仕事で大切なことはない、

家族の幸せを本当に考えていたのか、

と批判する意見も分かります。

 

 

 

ケアリーの行動を表面上で見たならば、

家族 ≦ 神への信仰≒自分の夢=宣教

とも映る構造ですからね...

 

 

 

しかし、私はそれでも彼はベストを尽くしたと信じています。

彼の家族をないがしろにしたように見える行動を肯定したいと言っているのではなく、

例え記録が無くとも、成し得てきた軌跡を辿ると、

ケアリーは自分の惨めさや弱さを知ったうえで、

自らの信仰に寄り縋り、家族を愛して愛し貫いたと思えてならないのです。

 

 

 

故郷で、そしてインドで私財や人生を投げ打ってまで、

人の救いを考えて行動してきた彼ならば、

慈しみを見失ったり、家族を失うべき犠牲だったと微塵も考えていなかったはずです。

 

 

表層的な一般常識でケアリーの行動を批判するのでなく、

彼の思想を完全に理解するためには、

彼が見続けていたものを深く学ぶ必要があると考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

ケアリーに関しては、日本語の本は多くありません。

洋書だとこちらがベストです。

 

Life of William Carey
 

 

 

宗教関係者らがまとめたサイトですが、簡潔に概要を知りたいならばこちらも良いです。

 

https://www.wholesomewords.org/missions/bcarey3.html

 

 

 

日本語でわりとおススメなのはこの本ですが、絶版の状態が続いています。

 

Calling―何処までもインドを愛し生涯をささげた海外宣教の父ウ

Calling―何処までもインドを愛し生涯をささげた海外宣教の父ウ

 

 

ただ、この漫画は脚色されている箇所が多少あるので注意が必要ですが、

読みやすさで言ったらNo.1です!

もし見かけた時は、是非ご覧ください。

 

 

 

 

41年間の滞在で700人近くのインドの人が改宗しました。

たった700人だったかもしれません。

ですが、愛する人々を失っても、彼は命をかけて、

世界地図と、

その“Expect great things from God; attempt great things for God.”

と目標を書かれた紙きれを

いつも眺め、仕事に励んだと言われています。

 

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“徹底性に欠ける者は、特に≪目に見えないこと≫において徹底性に欠ける者は、看護師ではない”

 

ナイチンゲールのこの言葉と、

 

“大切なことは、目に見えないからね”

 

星の王子様でのキツネの言葉が思い出されます。

 

 

*1:バプテスト派であったため、牧師になりやすかったのは事実です

*2:少しだけ脱線すると、この本の題名の和訳はちょっとズレていると感じます。

”異教徒改宗の手段に用いるキリスト者の研究”では、いかにも冷たい印象で、強制的に機械的に改宗させるニュアンスが感じられますが、本文にはそのような印象はなく、丁寧に彼の考えが紹介されています。

当時の一般市民が記した書物としては、とても高度の次元でまとまっており、研究とも表現できなくもないですが、あくまで彼は客観的な情報と宣教への愛を訴えているのであって、研究と表現されているのも、本来の主旨と異なると考えるからです

 私だったら、“私達クリスチャンの使命ー異教の信徒へ伝道するための嘆願書ー”

と意訳した方が彼の意図に忠実なのではと思います。

なので、もし時間ができた時に本文も日本語翻訳して、色んな人に彼の魂の一遍を知ってほしいと本気で思っています笑

*3:キリスト教の布教の目的で、聖書を用いて読み書きの教育した、というのは実情ではありますが、19世紀初頭に実施していたのはすごいと思います