看護はサービス業ではないと言っていいのか?
お金の余裕が少しできたので、最近はたまにカフェに行ける時間を楽しんでいます。
仕事終わりの、あの一杯はたまりません。
一時は手元に2~8$しかないような中やりくりしていました(笑)
お金の有難みを再確認できました。
お世話になった関係者の方々、本当にありがとうございました。
今回は、看護とサービス業の関係についての思うところを綴ります。
病院で勤務していると、「医療はサービス業じゃないんだから…」と耳にする時がありました。
○○号の△さんとそのご家族が、××を何度も要望している、とのことです。
同業者の方でも、ナースステーションの裏で、
(手がやっと空いた時に訪れるつかの間に)看護師と医師らでこんな会話をした経験のある人もいるのではないでしょうか。
また、一般世間からも、
医療は“命を救う”目的があり、
他のサービス業界とは一線を画すというのが大半の人も同意しているのではないかと思います。
ただ、医療の中でも患者と関わり身近な存在である看護師が、
“看護はサービス業ではない”、
この思いを抱くことは(もちろん患者に表出するのはもっての他ですが)気にする必要のない愚痴やつぶやきとして片づけてしまっていいのでしょうか。
私もその言葉を使っていました。
“看護はサービス業ではない”との言葉を自分に言いきかせると、
頑張って働いても毎日長時間労働と休憩時間もない中で、
全ての業務やNsコールに対応できっこないと開き直ることで気が楽になったのと同時に、妙な切ない違和感を覚えていました。
今になったからこそ声を大にして言えますが、
私は、是非はともかくそのように否定しきってしまう態度自体、
“看護師の存在価値と得られる成果を自ら放棄してしまっている危険な思想過程に陥ってしまう”
と感じています。
大半の医療者はサービス業ではないとの主張しており、その言い分も納得できますが、私は敢えて反対の意見を述べたいと思います。
自戒を込めて、今回は一看護師側からみる考察を述べ、
最初に、看護をサービス業でないと言ってしまうリスクは何であるのか、
次に、看護とサービスをどのように捉えていけばよいのか、
私の考えを記載していきます。
(1)看護をサービス業ではないと言い切るリスクは何であるか
このように考えるのは二つの根拠があります。
まず先に個々の言葉の定義を確認します。
サービス業という言葉ですが、これには様々な定義をされているのが現状です。
経済産業省のHPによると、
三次産業のことを指し、いわゆる一次、二次以外の幅広い産業を含む場合、
もしくは、狭義のサービス業を表す場合もあるようです。
少し分かりづらいのでこの場では、捉えやすいサービス業の方、
“統計で用いられる日本産業標準分類で表現される、いわゆる三次産業という大きな枠組みのサービス業”
を用いたいと思います。
次に、サービスの元々の英語 serviceは、Oxford英英辞典では、看護に関する該当箇所は
1The action of helping or doing work for someone.
英語は英語のままのほうがしっくりきますね。
広辞苑では、
①奉仕。「―精神」
②給仕。接待。「―のいい店」「―料」
③商売で値引きしたり、客の便宜を図ったりすること。「付属品を―する」
④物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務。「―産業」
線引きが難しいところですが、主の看護が関係するサービスは、①、④としましょう。
看護の行う仕事全てを的確に表現しているわけではありませんが、奉仕という言葉は連想しやすいのではないでしょうか。
元々、serviceの意味には、日本で見られる③のようなタダの意味はありません。
日本は、このサービスの概念が解離していたり混同して使用しています。
“看護のサービス”とは、
今回は、あえて場所は病院のみを想定し、
対象者に対して提供する、看護師が行う看護実践や管理、教育、知識と思考、奉仕と位置付けます。
つまり、“病院での看護師を通して患者さんに行われる全ての有益な関わり”を示したいと思います。
さて、看護はサービス業ではないと否定してしまうことによって生じる危惧は、二つの理由があります。
まずは、その言葉に看護の本質が見失われていまう意味を含んでいる、からです。
確かに、上記通り、ただ単にサービス業という文字通りの言葉で看護の仕事を表現するのは無理があるかもしれません。
そもそも、医療自体がビジネスですが、経済的な利益を第一の目的にしていない点で他の産業とは違います。
国民皆保険制度はその象徴です。
医療の目的の一つは命を救うところなので、
その場の状況から優先・劣後順位を瞬間的に判断して看護師は臨機応変に行われなければなりません。
どうしても、それらのために医療では、サービスのある意味一部分とも言える融通というものが効かない場合もあるのは、仕方ないと考えています。
しかし、看護の目標とする理念は、患者、社会の人々の健康増進であり、
そのために、指導や教育、ケアの実践と、サービスの提供を業としています。
相手の人生、特性、生活を踏まえて、自分たちの知識を融合させて支えるのです。
まさに、看護師の信条は、
service=The action of helping or doing work for someone そのものに他なりません。
American Jounarl of Nursingという雑誌に掲載されたThe professional status of nursingの中に私が好きな一文があります。
看護がまだまだ専門職として認識されていなかった1950年代、
看護にとっての専門職とは何かを定義した文章の一遍です。
専門職は、私的利益よりも奉仕を優先させ、自ら選んだ職業をライフワークとして認めるような知的・個人的資源をもった人を魅了する。
短い文章に的確に看護師における専門職固有の目的を盛り込まれています。
仕事をしていた身として、私も多重業務でいつも緊張感があり休憩する時間もなく働き続けると、人に見せれる優しさの余裕がなくなってしまいます。
イライラしやすくなってしまうし、他者を大切に扱えなくなってしまう気持ちに陥ってしまいましたね…
サービスなんてク〇くらえだなんて思う気持ちも、
そうは言っても現場は忙しいから、
サービスの意義も分かっているけど、毎回実践できない、
なんていう意見も痛いほど分かります。
でも、辛い時も白衣を着ている時は、看護師のマインドを誇りに仕事を遂行する。
これが本当のプロフェッショナル=専門職です。
私的利益よりも奉仕≒serviceを優先させる、
この言葉に尽きると思います。
サービス業という、その枠組み自体に意味はなのに、
無理やりその囲みに看護という業種を押し込めてしまっているだけで、
個人的には、サービス産業という言葉も、あくまで統計で使用するためのカテゴリー分けであり、
それ以外での用い方はナンセンスなことが多いと思います。
看護師が、看護はサービス業でないと言いたくなる理由は、
私は決してサービスを患者になんか提供したくないという暴挙に由来しているのではない、ことは知っています。
理不尽とも感じてしまう状況や精神をすり減らしている時に、出てしまう感情であることも体験を持って経験しています。
しかし、
厳密なサービス業ではないとしても、
看護の本質の一つは、surviceをもって人を活(生)かす*1ことです。
看護はサービス業でないとの意見は、
深い意図をして使っているいないに関わらず、本質を否定するような誤認を私たち自身にも与えてかねてしまうと考えます。
もう一つ、サービス業と否定する恐ろしさは、知識労働としての意義を看護師自らが放棄を意味してしまうこと、だと考えます。
これはドラッカーの著書から大いにヒントをもらいました。
他のビジネス書を読んでみても、結果を出している人は、共通してこのテーマを理解して行動しています。
ユニクロの柳井さんも、この信念をもって仕事をしていると感じます。
労働は肉体労働と知識労働に分けることができます。
どちらが優れているという区別ではありません。
肉体労働は、体を資本に時間や効率で勝負します。
知識労働者とは、自分たちの専門分野の知識を適応して、変化を起こす仕事をする人たちを言います。
今日では、知識労働者が労働人口の多くを占めるようになりました。
肉体労働とよく誤解されますが、看護師は知識労働者の一つです。
彼は、知識労働者は、
我武者羅に仕事をするのでなく、
自らの仕事や業績の成果を出すことに焦点を当てマネジメントする必要があると述べています。
また、知識労働者の生産性が、
その人のキャリアやその雇用者である組織の成功・不成功のカギをも握っているのです。
看護師は、対象者や地域の抱えている健康問題を捉え、解決に導けるよう変化を起こそうと仕事をしています。
私たち看護師はそのような仕事をすれば満足でき、何より患者さんに良いことをしていると皆知っているのに、
現状は患者と直接関係ない業務に追われ、
忙しい中で貢献に焦点を当てること=患者にサービスを提供すること、の意識が薄れてしまう毎日です。
僕がそうでした。
肝心の管理と言っても、多くの病院の上層部が勝負していることは、
変化へのマネジメントではなく、時間内で一定の仕事を終わらせることやその場しのぎの教育などをしているにすぎないと感じています。
知識労働は肉体労働で測れる従来の指標のみで、仕事の適正や効果を評価はできません。
時間外労働の是正・評価のための介入は絶対に必要ですが、
肉体労働者の立場から看護現場の現象を考えてトンチンカンな対処をしていると気がしてなりません。
看護師は、自らの手を介して相互作用を通してケアを行います。
その仕事は、確かに身体を動かして行われるものですが、
肉体の労働による奉仕を体現しているのではありません。
私たちの持つ専門知識があって初めて、
必要なものとなり、
その後の適切な過程を踏むことで提供するにふさわしいサービスになるのです。
サービスは、よりよいものを提供すると言うvisionがあります。
日々、成果を出すことや貢献することに意識を置かなければ、仕事はただのroutine作業になり、
知識労働者=専門家=プロフェッショナル:professionalの価値を失い、
単に身体を動かしているだけの労働者=laborになってしまいます。
看護師の存在意義すらも喪失してしまうのです。
看護師の立ち位置である、
“知識を持って事を起こす専門職”として知識労働者の理を理解しなければ、
同じ過酷労働の渦に飲み込まれて、看護師の疲弊とその現場の変わることのない風土の長期化を助長させるだけになるのではないでしょうか。
どのように貢献できるか考えるのが知識労働者である看護師には必要です。
サービスではないとの発言はそれの立場すら放棄し、
看護師のプロフェッショナルとしての意義、組織としての病院の成長をも自ら否定する呪文にさえなってしまうと思います。
(2)看護とサービス、どのようにとらえて行動していけばよいか。
では、サービス業についてどのように看護は考えたらよいのか、挙がった問題についてどう解決すればよいか、意見を書けたらと思います。
と言っても結論は、浅いアイデア程度の代物なのですが…失笑
ただ、はっきりしているのは、本や先人からの学びでその答えを導き出せる、と信じてるということです。
とにかく勉強して力をつけ、そして実際と理論・知識を結び付けてに現場に生かせる臨床家になるのみですね。
まずは、システムを変える
いきなりおっきなテーマですね(笑)
ですがこれをしないと根本的な解決にはなりません。
そもそも、看護師がサービスを提供できない、またそう感じてしまうそれらの原因は、看護師だけの責任ではなく、取り巻く大きな環境が影響しているのは明白です。
以下メモ程度ですが感じていることを。
無駄な成果を生まない仕事は省いて、ベッドサイド(対象者の元)で働く時間を増やしたいですね。
ますます進む超高齢社会を乗り越えるには、看護師の更なる活用が必要不可欠だと考えています。
また、いいケアとそうじゃないケアをしても給料が一律ですし、
病院内では、良い意味で競い合って高めあおうとする雰囲気は感じられません。
モチベーションは上がらない人もでてきますよね。
教育も看護特有のパワハラもなくさないといけません。
給料をただ単純に上げることには反対の立場なのですが、
(商売ではないので難しいところですが)いつまでも昭和の大企業のような一律な給料階級で看護師がサラリーマン化してしまうのも、どうかなと思ってしまいます。
成果が問われ評価されにくいなら、ますます人は労働時間だけ気にする集団になってしまいます。
こんな環境ではプロフェッショナルな人材が少なくなるのは当然としか言いようがありません。
では具体的に、自分には何ができるのか。
私は、研究に携わるのが自らの特性に合っているので、研究を一つの専門分野にします。
まずは、まだ評価されていない、効果があると論理で証明されていない看護のケアを明らかにするため貢献したいです。
脳神経外科を始めとする頭頚部領域で働いていました。
特に脳神経疾患に関する看護師の介入については、まだまだ論文として解明されているのは少ないのが現状です。
今までやっていたこの看護師のケアは、
こんなにも患者の回復に関わっているんだ、
こんな効果が期待できるんだ
と、成果を表現したいと取り組んでいます。
そうすれば、その病棟で働いている看護師の方々を正しく評価するため、
制度やルール、巡り巡って職場環境も改善できます。
何より、明らかになった看護のケアを通して、
患者への効果的で最善のサービスを提供できると思うのです。
自分たちの貢献を世界に訴えて生き残るため、食らいつく勢いが必要でしょう。
まず目先の目標をクリアできるように努力します。
自分の能力を上げる
社会人として、資本主義国家に住む働き手として、知的労働者として、
そしてNsとして学びが必要だと思います。
気持ちの持ちようや疲労、感情的になることでサービス業ではないと感じるのであるなら、
自分の仕事の態度といわゆるストレスマネジメントができたらいいと思います。
このような自己管理も学んで、さらっとできたらカッコいいですよね。
専門分野と自分の武器を伸ばすのは前提として、社会の一員として教養や時事問題は押さえておくのも必須ではないでしょか。
本を読んだり、人に教えたり、
自分より知っている人に話を聞きに行くことであったり、
芸術を楽しんだり、
好きな人と過ごす時間であったり、
アニメ見たり、
アイマスをしたり(笑)、
人生を悔いなく輝いて生きる、ことだと思います。
それらの関わりを通じて、サービスに携わる嗅覚が研ぎ澄まされて、これまでの見方を新しく想像してくれるはずです。
そして、仕事の仕方、成果を上げる正しいやり方を身に着けていきたいものです。
これから上のレベルに進むためには、他業界のように管理や教育のプロフェッショナルの看護師が増えていかなければならないでしょう。
先ほど紹介したAmerican Jounarl of Nursingの一文には、さらに専門職の規範が続いています。
行動の自由と、専門職としての継続的な成長と経済的安全を供与することによって、実践家への補償に努める
最善のサービスをできるように、看護師らが努めるべき姿です。
本当に的確で深い言葉だなと感じます。
私も現場の大変さは分かっているつもりですが、まだまだ理想論にすぎないと感じています。
是非ご意見お聞かせください!
臨床を大切に頑張ります!
*1:生命を永らえさせるという訳ではありません。力づけ、励まし、慰め、労り、誠意を持って尽くすことです