理論では超えられないもの 私の看護観に影響を与えてくれた人(1)
2018年もあと少しで終わりますね。
皆さんにとって今年はどのような年だったでしょうか?
私にとっては、人生で一番濃くてその分失敗をして、勉強をして、羽を伸ばして(笑)、制約があって、そして自由な一年でした。
年末であり、自分の原点や目標を振り返る時間を持ちたいですね。
さて、今回自己を見つめていた中で、私が看護師を行うにあたって、とても影響の与えてくれた人とそこから得た私の看護観を書きたいと思います。
その前に、まず “看護観” という言葉を聞いたことのない方も多いのではないでしょうか。
看護教育では良く使われる言葉で、職業観や価値観などと同じように、
看護観とは看護についての各個人の着想のことを指します。
看護師それぞれ自分のこれまでの体験などを元に、自らの看護観がつくられていきます。
普段の仕事の様子を見ていくと、その人の大切にしているポリシーが見え、その人の看護観がだんだんと分かってきます。
いわば、看護観は各個人の信条や心の拠り所に相互に影響し合っていると言えると思います。
ただ最初に断っておくと、
その看護観は、臨床で実際にどうこう生かせると言った画期的な全職員を律する物差しではありません。
あくまで個人的な看護に対する考えであり、
体系的に一貫性のとれた既存の看護理論を臨床では使用しています。
実際、全看護師の思考プロセスは、
特に汎用性が高い幾つかの看護理論に基づいて、教育を受け使用されています。
看護理論をしっかり学ばないと実践には活かせません。
最近、(本当に今更で恥ずかしい限りですが...)看護理論の本を読んで衝撃を受けました。
学生時代は別の本で学んでいたものの、理論の楽しさに気づけずサラッと目を通した程度の理解でした。
なんで学部生の時に何故もっと早くこの本を読んで勉強しなかったのだろうか…
理論と言うとお硬い響きでも、
実践に変換できる有効な思考ツールです。
看護理論にはこの本は必須だと思います。
話を戻していきます。
何故、では全体に還元しやすく共有することができる看護理論ではなく、生産的でないかもしれない自分の看護観について話をしたいのか。
それは、自分の看護観を形作ってくれた彼らの人生を見つめていくと、
看護に留まらず人生の生き方として提示してくれているから、
看護理論は重要ではあるけれども、
理詰めではとうてい太刀打ちできない領域が看護には備わっている
と思わずにはいられないからです。
看護観をテーマに置きながら、神学、宗教学、哲学、人類学なども踏まえて考察していきます。
それでは、私の尊敬する人の生き様をご紹介し、そこから得た私の看護観と解釈を二回に分けてお伝えします。
前半部分である今回は、一人目の人物の紹介を。
後半で、二人目と私の看護観などを説明できたらと考えています。
(1)ウィリアム・ケアリー(William Carey)1761-1834
まず一人目は、ウィリアム・ケアリーです。
日本ではマイナーな歴史上の人物と思われるかもしれませんが、
イギリスを代表する宣教師、植物学者です。
「近代海外宣教の父」とも言われ、インドでのキリスト教宣教に最も貢献した人とも言われています。
インドの人々に福音を伝えたいと熱い思いに駆り立てられ、
生涯を通して伝道していきました。
彼の生涯を簡単にお伝えします。
ケアリーは、敬虔なキリスト教徒の母親をもつ家庭に生まれ、
弟子入りをして靴屋で働いていました。
ただ彼は、一度少しばかりでしたがお金をくすねてしまい、
師匠とトラブルになり、自分の弱さと惨めさを思い知らされました。
そのことをきっかけに、彼は信仰を強くし、
和解後に教会に熱心に通うようになります。
勉強家で聖書も学び、村の住人からも信頼されていた彼は、
その後教会の先生になることになり、*1
結婚してイギリス社会でいう順風満帆の安定した生活が始まったように見えました。
ですが、彼の内には信仰の熱い炎が燃えており、満足しませんでした。
まだ福音を知らない人に伝道する必要性を強く感じていたのです。
加えて、本が好きだった彼は世界のこと、特にキリスト教が未だ伝わっていないインドのことを知り、
自らその地に赴いて宣教する夢を抱き、色々苦労しながら模索していきます。
そしてついに、家族と教区の信認を得て、
妻と子を含む親族でインドに渡り、彼の mission がスタートしたのでした。
ただ、インドの生活は想定以上の過酷さでした。
言葉や経済面、安全面においても困難を極めました。
宣教で必要な現地語の聖書の翻訳作業も時間がかかり、
立ち上げた印刷工場も火災に遭い燃やされてしまいます。
インド人の改宗した信徒が、
裏切り行為と非難され、
同じインド人に殺されてしまう悲しい事件が起きてしまったり、
イギリス政府の関係者のにも、
彼の存在が自分たちの利益に反するとして、
快く思っていなかった連中もおり、命を狙われたり、
感染症によって家族が苦しみにあったり…
とにかく、想像を絶するありとあらゆる人生の試練に襲われていったのです。
しかし、彼は負けませんでした。
vision を失わず、信仰によって全てを委ね、
家族と友人の助けを借りながら、黙々と仕事を続けていきます。
結果、複数の言語に翻訳した聖書を世に送り出し、
現地の農作物や教育の発展にも力を注ぎ、
彼の姿に感動していったインドの人々からも尊敬と信頼を集め、
福音を伝えていきました。
彼はインドの地で、最期までインドの人のために働いていきました。
そのような彼から、私は三つの感銘を受けました。
➀他者への温かい人間愛
まずは、彼の行動から、溢れる人間愛を感じることができます。
当時のイギリス帝国は、七年戦争(プラッシーの戦い)でフランスに勝利し、
インドの支配を広げ私物化していきました。
その任務を担っていたのが、東インド会社というイギリスの会社で、
貿易会社でありながら、行政機関としても本国から絶対的な力を譲渡されていた権力組織でした。
この時のイギリスは超大国と言われる世界で一番強かった国です。
原料生産地を押さえ、
産業革命によって作った大量で安い絹製品を売り込こみ、
自国の利益のためにインドの経済は破綻していきます。
歴史から見ると、最終的に複合的な原因によるとは言え、
この東インド会社の力でねじ伏せる政策に対し、
大規模な民衆の大反乱がおこりますが鎮圧されてしまいます。
インドの人はイギリスに対して、
好感どころか敵意を持っていて当然と言える立場だったのです。
ケアリーは、これから向かうこの地の置かれている状況も
自国の動向も分かっていました。
(ケアリーがまず最初に派遣されたベンガル地域も、すでにインドと戦争をして獲得したイギリスの領有地でした)
それでもなお、彼が正義とする福音を述べ伝えるという使命を果たすため
困難や批判を覚悟で乗り込んだのです。
そして、インドの人が心を開き許してくれるようにするためには、
態度と地道な行動をもって愛を伝えていく他ないと考え
(神学で言うならば、人間の力によるのではなく祈り信仰をもって)
宣教を始めたのでした。
彼の素晴らしいのは、
常に住民を愛して尊重して生活に溶け込んでいった点だと私は考えています。
ケアリーは、伝道する時はいつも住民が理解できるような説明を心がけていたと言われています。
文字が読めない人も多くいたため、
改宗した現地の信徒の人と一緒に説教をしたり、
文字が分かる人にはテキストも同時に用いて回りました。
東インド会社の正反対である、己の利益を求めずインドの人々の救いを求めて彼は闘い抜きました。
搾取によらない関わりの必要性をすでに説いており、かなり当時として先鋭的な人物であったと分かります。
敵国の人間と思われても仕方のない地域で、
情報もコミュニティーも
直接人を介さなければ手には入らない状況でした。
しかし、そこで伝道できたのは、彼の弁論の技術によるものだけではないでしょう。
話している彼自身の内から他者を引き付ける魅力≒人間愛
(神学で言えば、それが神の力だったわけですが)
がなければ、到底成しえないのではないかと思います。
彼はたくさんのインド人の友人と一緒に、
食事をし、ヒンドゥー教の音楽を楽しみ、
胸襟を開いた交流を続けました。
また、彼の歴史上の功績と言うと、
インドで慣習的に行われていたサティー(sati or suttee) の廃止に尽力したことでしょう。
サティーとは、ヒンドゥー教徒の中で行われた儀式で、
夫が亡くなった場合、残された未亡人は生きたまま夫の火葬と共に焼死させられるというものです。
これは、ヒンドゥー教の宗教儀式とは一切関係ないのにも関わらず、
慣習として古くから成され、たくさんの親族や野次馬に囲まれて
多くの未亡人が泣き苦しみながら死んでいきました。
残された子どもや親、見物をしていた赤の他人のそれぞれの心理状況を考えると、
言葉にできない悲しみと人間の恐ろしさに押しつぶされそうになります…
ケアリーはこの現状にひどく苦しみ、
何とか彼女らを救いたいと願い、根絶に向けて奮闘します。
ここでさらに彼を尊敬するのは、
彼はヒンドゥー教やサティーを行っている人々自体に対して
決して憎しみで解決しようとはせず、蔑んだりしなかったことです。
自分たちも同じように過ちを起こす人間に変わりなく、彼らが自らの過ちに気づき変われるようにと願ったのです。
(神学の視点で事象を述べるならば、憎しみを抱いてしまったのも事実ですが、神に祈り憐れみを求め、そして悔い改め強められることで、彼らのために祈り続けました)
看護理論家のヘンダーソンの言葉を借りるなら、
“他者の皮膚の内側に入り、自分の仲間である人間を愛する”
行為と一致していたと言えるでしょう。
しかも、相手に対して、甚だしい陰性感情を最初は抱いていたにも関わらず、彼は上記を実践していったことになります。
あるがままを愛をもって無条件に受容したのだと思います。
ただただ脱帽するばかりですね。
彼はその後、ヒンドゥー教の宗教家であるラーム・モーハン・ロイ(Ram Mohan Roy) と協力し、
ヒンドゥー教の法典にサティーの実施根拠はないことを、テキストを用いて伝えました。
また、東インド会社の上層部との政治に関する交渉もこなし、説得を試みます。
結果、二人の努力により廃止運動が盛んとなり、
1829年にサティー禁止法が成立されました。
草の根活動をして住民の理解を得つつ、行政にも働きかける…
超優秀でデキる研究者のお手本のようです。
②探求心と行動力
ケアリーは聖書を、ベンガル語をはじめとするインド地域の言語翻訳を世界で初めて行います。
長い苦労と努力が実を結んだのは間違いないですが、
彼は青年時代に、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語をマスターしており、かなり語学が堪能な人だったからできた技でした。
ただすごいのは、彼は大学に行かず独学で勉強したこと。
靴屋の仕事をしながら、暇を見つけては本に読みふけっていました。
彼が世界宣教の志を抱いたのも、信仰の他に、本で読んだ知識・教養が影響しています。
実は、彼がインド宣教を世間に訴え、資金と支持を集められたのは、
いかに海外宣教がクリスチャンとして重要であるかを説いた本を出版し、評価を得たからです。
それは、1792年に出版した “異教徒改宗の手段に用いるキリスト者の研究”*2という本で、
これまで学んだインドに関する地理や歴史、神学の知見をまとめて根拠とし、彼の熱い熱い海外宣教への情熱とともに書かれています。
たま~に書店に並んでいる下手な自己啓発本なんかより笑、
よっぽど目を覚ましてくれる本です。
日本語では残念ながら出版はされていません。
原本は “An Enquiry into the Obligations of Christians to Use Means for the Conversion of the Heathens” です。
勉強家の彼はインドでは植物について勉強も始め、宣教の傍ら大学の植物学の教授にもなっています。
また、時代的にも社会構造的にも男性優位のインド社会に、
女子に対しても初等教育を行う学校も実費で設立しています。*3
さらに、はるか遠いインドに命がけで航海する行動力も、私には真似できません。
言葉でまとめると簡単ですが、彼の行動は本当に頭が下がります。
看護で例えるなら、
プライマリーヘルスケアの理念すら存在しない時に、
見事にそれを実行して地域を良い方向に変化させ、
母子保健や公衆衛生にも精通しているように感じます。
彼の力強さと行動にはいつもchallengeをもらいます。
もしもケアリーが看護師であったなら、どんな看護師になっていたのでしょうか。
➂原点を見失わず逆境に屈しなかった
最後は、彼をそこまで突き動かしたエネルギーについて触れたいと思います。
熱く、力強い行動力はどこから来たのか。
結論から言えば、それは、彼本人が語った有名な言葉、
“Expect great things from God; attempt great things for God.”
に集約された信仰によるものであり、
それ以外でもそれ以下でもなく、他の言葉で置き換えて表せるものではないでしょう。
私は彼のような宗教家ではないので、
ただ、看護師の立場で思いを巡らすならば、
(千歩譲って看護学で捉えるならば)
彼はケアの真髄=本質が分かっていたのではないでしょうか。
彼がどこまで、信念を貫いて葛藤し悩んでいたのか分かる象徴的なエピソードをご紹介します。
ケアリーが結婚して間もなく、まだイギリスにいた頃、
彼が海外宣教を希望した時に妻は強く反対しました。
彼女は、夫を愛していましたが、穏やかな家族との平和な日常を失いたくない、
当時は野蛮な国とも思われていた異国に、命の危険を冒してまで行くべきでないと考えました。
ケアリーは彼女の願うところはもっもだと理解していました。
ただ、徐々に夫の真剣な使命があることを悟った彼女は、
辛いながらも彼を信じ共に国を出る覚悟をしたのです。
素敵な奥さんだったのでしょうね。
しかし、
インドでの数えきれないほどの困難が、
彼女の精神をすり減らしていきました。
ケアリーはもちろん、子どもたちも励まし続けましたが、
陽性症状や適応障害、認知機能障害のような精神状態であったと日記に記録されてます。
十年以上その症状が続き、後に感染症に倒れ亡くなってしまいます。
おそらく統合失調症を患ったのではないかと私は考えています。
…聖職者であるのに、自分の妻の精神を崩してしまった、
家族すらも救えず、むしろ苦しめてしまった…
そのように、猛烈に自責の念と涙を彼が味わっていたのは想像に難くありません。
しまいには、子どもも感染症と思われる病状から何人も亡くなってしまいます。
彼の家族に関する情報は少ないのですが、
荒れ狂う妻に対して何をすればよいか分からず立ち尽くしてしまったり、
子どもへの育児も十分にできていなかった様子があった、
と同僚の記録に残っています。
彼の妻の看病や家族への対応は、詳細は不明であっても、同僚とは色々意見が異なっていたのは事実のようです。
正直、彼の家庭への向き合い方については議論を呼ぶところかもしれません。
配偶者が病気を患い、その後亡くなってしまい
仕事も多忙で子どもの世話も満足にいかなかったかもしれませんが、
そもそも家族以上に仕事で大切なことはない、
家族の幸せを本当に考えていたのか、
と批判する意見も分かります。
ケアリーの行動を表面上で見たならば、
家族 ≦ 神への信仰≒自分の夢=宣教
とも映る構造ですからね...
しかし、私はそれでも彼はベストを尽くしたと信じています。
彼の家族をないがしろにしたように見える行動を肯定したいと言っているのではなく、
例え記録が無くとも、成し得てきた軌跡を辿ると、
ケアリーは自分の惨めさや弱さを知ったうえで、
自らの信仰に寄り縋り、家族を愛して愛し貫いたと思えてならないのです。
故郷で、そしてインドで私財や人生を投げ打ってまで、
人の救いを考えて行動してきた彼ならば、
慈しみを見失ったり、家族を失うべき犠牲だったと微塵も考えていなかったはずです。
表層的な一般常識でケアリーの行動を批判するのでなく、
彼の思想を完全に理解するためには、
彼が見続けていたものを深く学ぶ必要があると考えています。
ケアリーに関しては、日本語の本は多くありません。
洋書だとこちらがベストです。
宗教関係者らがまとめたサイトですが、簡潔に概要を知りたいならばこちらも良いです。
日本語でわりとおススメなのはこの本ですが、絶版の状態が続いています。
ただ、この漫画は脚色されている箇所が多少あるので注意が必要ですが、
読みやすさで言ったらNo.1です!
もし見かけた時は、是非ご覧ください。
41年間の滞在で700人近くのインドの人が改宗しました。
たった700人だったかもしれません。
ですが、愛する人々を失っても、彼は命をかけて、
世界地図と、
その“Expect great things from God; attempt great things for God.”
と目標を書かれた紙きれを
いつも眺め、仕事に励んだと言われています。
“徹底性に欠ける者は、特に≪目に見えないこと≫において徹底性に欠ける者は、看護師ではない”
ナイチンゲールのこの言葉と、
“大切なことは、目に見えないからね”
星の王子様でのキツネの言葉が思い出されます。
*1:バプテスト派であったため、牧師になりやすかったのは事実です
*2:少しだけ脱線すると、この本の題名の和訳はちょっとズレていると感じます。
”異教徒改宗の手段に用いるキリスト者の研究”では、いかにも冷たい印象で、強制的に機械的に改宗させるニュアンスが感じられますが、本文にはそのような印象はなく、丁寧に彼の考えが紹介されています。
当時の一般市民が記した書物としては、とても高度の次元でまとまっており、研究とも表現できなくもないですが、あくまで彼は客観的な情報と宣教への愛を訴えているのであって、研究と表現されているのも、本来の主旨と異なると考えるからです。
私だったら、“私達クリスチャンの使命ー異教の信徒へ伝道するための嘆願書ー”
と意訳した方が彼の意図に忠実なのではと思います。
なので、もし時間ができた時に本文も日本語翻訳して、色んな人に彼の魂の一遍を知ってほしいと本気で思っています笑
*3:キリスト教の布教の目的で、聖書を用いて読み書きの教育した、というのは実情ではありますが、19世紀初頭に実施していたのはすごいと思います
看護はサービス業ではないと言っていいのか?
お金の余裕が少しできたので、最近はたまにカフェに行ける時間を楽しんでいます。
仕事終わりの、あの一杯はたまりません。
一時は手元に2~8$しかないような中やりくりしていました(笑)
お金の有難みを再確認できました。
お世話になった関係者の方々、本当にありがとうございました。
今回は、看護とサービス業の関係についての思うところを綴ります。
病院で勤務していると、「医療はサービス業じゃないんだから…」と耳にする時がありました。
○○号の△さんとそのご家族が、××を何度も要望している、とのことです。
同業者の方でも、ナースステーションの裏で、
(手がやっと空いた時に訪れるつかの間に)看護師と医師らでこんな会話をした経験のある人もいるのではないでしょうか。
また、一般世間からも、
医療は“命を救う”目的があり、
他のサービス業界とは一線を画すというのが大半の人も同意しているのではないかと思います。
ただ、医療の中でも患者と関わり身近な存在である看護師が、
“看護はサービス業ではない”、
この思いを抱くことは(もちろん患者に表出するのはもっての他ですが)気にする必要のない愚痴やつぶやきとして片づけてしまっていいのでしょうか。
私もその言葉を使っていました。
“看護はサービス業ではない”との言葉を自分に言いきかせると、
頑張って働いても毎日長時間労働と休憩時間もない中で、
全ての業務やNsコールに対応できっこないと開き直ることで気が楽になったのと同時に、妙な切ない違和感を覚えていました。
今になったからこそ声を大にして言えますが、
私は、是非はともかくそのように否定しきってしまう態度自体、
“看護師の存在価値と得られる成果を自ら放棄してしまっている危険な思想過程に陥ってしまう”
と感じています。
大半の医療者はサービス業ではないとの主張しており、その言い分も納得できますが、私は敢えて反対の意見を述べたいと思います。
自戒を込めて、今回は一看護師側からみる考察を述べ、
最初に、看護をサービス業でないと言ってしまうリスクは何であるのか、
次に、看護とサービスをどのように捉えていけばよいのか、
私の考えを記載していきます。
(1)看護をサービス業ではないと言い切るリスクは何であるか
このように考えるのは二つの根拠があります。
まず先に個々の言葉の定義を確認します。
サービス業という言葉ですが、これには様々な定義をされているのが現状です。
経済産業省のHPによると、
三次産業のことを指し、いわゆる一次、二次以外の幅広い産業を含む場合、
もしくは、狭義のサービス業を表す場合もあるようです。
少し分かりづらいのでこの場では、捉えやすいサービス業の方、
“統計で用いられる日本産業標準分類で表現される、いわゆる三次産業という大きな枠組みのサービス業”
を用いたいと思います。
次に、サービスの元々の英語 serviceは、Oxford英英辞典では、看護に関する該当箇所は
1The action of helping or doing work for someone.
英語は英語のままのほうがしっくりきますね。
広辞苑では、
①奉仕。「―精神」
②給仕。接待。「―のいい店」「―料」
③商売で値引きしたり、客の便宜を図ったりすること。「付属品を―する」
④物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務。「―産業」
線引きが難しいところですが、主の看護が関係するサービスは、①、④としましょう。
看護の行う仕事全てを的確に表現しているわけではありませんが、奉仕という言葉は連想しやすいのではないでしょうか。
元々、serviceの意味には、日本で見られる③のようなタダの意味はありません。
日本は、このサービスの概念が解離していたり混同して使用しています。
“看護のサービス”とは、
今回は、あえて場所は病院のみを想定し、
対象者に対して提供する、看護師が行う看護実践や管理、教育、知識と思考、奉仕と位置付けます。
つまり、“病院での看護師を通して患者さんに行われる全ての有益な関わり”を示したいと思います。
さて、看護はサービス業ではないと否定してしまうことによって生じる危惧は、二つの理由があります。
まずは、その言葉に看護の本質が見失われていまう意味を含んでいる、からです。
確かに、上記通り、ただ単にサービス業という文字通りの言葉で看護の仕事を表現するのは無理があるかもしれません。
そもそも、医療自体がビジネスですが、経済的な利益を第一の目的にしていない点で他の産業とは違います。
国民皆保険制度はその象徴です。
医療の目的の一つは命を救うところなので、
その場の状況から優先・劣後順位を瞬間的に判断して看護師は臨機応変に行われなければなりません。
どうしても、それらのために医療では、サービスのある意味一部分とも言える融通というものが効かない場合もあるのは、仕方ないと考えています。
しかし、看護の目標とする理念は、患者、社会の人々の健康増進であり、
そのために、指導や教育、ケアの実践と、サービスの提供を業としています。
相手の人生、特性、生活を踏まえて、自分たちの知識を融合させて支えるのです。
まさに、看護師の信条は、
service=The action of helping or doing work for someone そのものに他なりません。
American Jounarl of Nursingという雑誌に掲載されたThe professional status of nursingの中に私が好きな一文があります。
看護がまだまだ専門職として認識されていなかった1950年代、
看護にとっての専門職とは何かを定義した文章の一遍です。
専門職は、私的利益よりも奉仕を優先させ、自ら選んだ職業をライフワークとして認めるような知的・個人的資源をもった人を魅了する。
短い文章に的確に看護師における専門職固有の目的を盛り込まれています。
仕事をしていた身として、私も多重業務でいつも緊張感があり休憩する時間もなく働き続けると、人に見せれる優しさの余裕がなくなってしまいます。
イライラしやすくなってしまうし、他者を大切に扱えなくなってしまう気持ちに陥ってしまいましたね…
サービスなんてク〇くらえだなんて思う気持ちも、
そうは言っても現場は忙しいから、
サービスの意義も分かっているけど、毎回実践できない、
なんていう意見も痛いほど分かります。
でも、辛い時も白衣を着ている時は、看護師のマインドを誇りに仕事を遂行する。
これが本当のプロフェッショナル=専門職です。
私的利益よりも奉仕≒serviceを優先させる、
この言葉に尽きると思います。
サービス業という、その枠組み自体に意味はなのに、
無理やりその囲みに看護という業種を押し込めてしまっているだけで、
個人的には、サービス産業という言葉も、あくまで統計で使用するためのカテゴリー分けであり、
それ以外での用い方はナンセンスなことが多いと思います。
看護師が、看護はサービス業でないと言いたくなる理由は、
私は決してサービスを患者になんか提供したくないという暴挙に由来しているのではない、ことは知っています。
理不尽とも感じてしまう状況や精神をすり減らしている時に、出てしまう感情であることも体験を持って経験しています。
しかし、
厳密なサービス業ではないとしても、
看護の本質の一つは、surviceをもって人を活(生)かす*1ことです。
看護はサービス業でないとの意見は、
深い意図をして使っているいないに関わらず、本質を否定するような誤認を私たち自身にも与えてかねてしまうと考えます。
もう一つ、サービス業と否定する恐ろしさは、知識労働としての意義を看護師自らが放棄を意味してしまうこと、だと考えます。
これはドラッカーの著書から大いにヒントをもらいました。
他のビジネス書を読んでみても、結果を出している人は、共通してこのテーマを理解して行動しています。
ユニクロの柳井さんも、この信念をもって仕事をしていると感じます。
労働は肉体労働と知識労働に分けることができます。
どちらが優れているという区別ではありません。
肉体労働は、体を資本に時間や効率で勝負します。
知識労働者とは、自分たちの専門分野の知識を適応して、変化を起こす仕事をする人たちを言います。
今日では、知識労働者が労働人口の多くを占めるようになりました。
肉体労働とよく誤解されますが、看護師は知識労働者の一つです。
彼は、知識労働者は、
我武者羅に仕事をするのでなく、
自らの仕事や業績の成果を出すことに焦点を当てマネジメントする必要があると述べています。
また、知識労働者の生産性が、
その人のキャリアやその雇用者である組織の成功・不成功のカギをも握っているのです。
看護師は、対象者や地域の抱えている健康問題を捉え、解決に導けるよう変化を起こそうと仕事をしています。
私たち看護師はそのような仕事をすれば満足でき、何より患者さんに良いことをしていると皆知っているのに、
現状は患者と直接関係ない業務に追われ、
忙しい中で貢献に焦点を当てること=患者にサービスを提供すること、の意識が薄れてしまう毎日です。
僕がそうでした。
肝心の管理と言っても、多くの病院の上層部が勝負していることは、
変化へのマネジメントではなく、時間内で一定の仕事を終わらせることやその場しのぎの教育などをしているにすぎないと感じています。
知識労働は肉体労働で測れる従来の指標のみで、仕事の適正や効果を評価はできません。
時間外労働の是正・評価のための介入は絶対に必要ですが、
肉体労働者の立場から看護現場の現象を考えてトンチンカンな対処をしていると気がしてなりません。
看護師は、自らの手を介して相互作用を通してケアを行います。
その仕事は、確かに身体を動かして行われるものですが、
肉体の労働による奉仕を体現しているのではありません。
私たちの持つ専門知識があって初めて、
必要なものとなり、
その後の適切な過程を踏むことで提供するにふさわしいサービスになるのです。
サービスは、よりよいものを提供すると言うvisionがあります。
日々、成果を出すことや貢献することに意識を置かなければ、仕事はただのroutine作業になり、
知識労働者=専門家=プロフェッショナル:professionalの価値を失い、
単に身体を動かしているだけの労働者=laborになってしまいます。
看護師の存在意義すらも喪失してしまうのです。
看護師の立ち位置である、
“知識を持って事を起こす専門職”として知識労働者の理を理解しなければ、
同じ過酷労働の渦に飲み込まれて、看護師の疲弊とその現場の変わることのない風土の長期化を助長させるだけになるのではないでしょうか。
どのように貢献できるか考えるのが知識労働者である看護師には必要です。
サービスではないとの発言はそれの立場すら放棄し、
看護師のプロフェッショナルとしての意義、組織としての病院の成長をも自ら否定する呪文にさえなってしまうと思います。
(2)看護とサービス、どのようにとらえて行動していけばよいか。
では、サービス業についてどのように看護は考えたらよいのか、挙がった問題についてどう解決すればよいか、意見を書けたらと思います。
と言っても結論は、浅いアイデア程度の代物なのですが…失笑
ただ、はっきりしているのは、本や先人からの学びでその答えを導き出せる、と信じてるということです。
とにかく勉強して力をつけ、そして実際と理論・知識を結び付けてに現場に生かせる臨床家になるのみですね。
まずは、システムを変える
いきなりおっきなテーマですね(笑)
ですがこれをしないと根本的な解決にはなりません。
そもそも、看護師がサービスを提供できない、またそう感じてしまうそれらの原因は、看護師だけの責任ではなく、取り巻く大きな環境が影響しているのは明白です。
以下メモ程度ですが感じていることを。
無駄な成果を生まない仕事は省いて、ベッドサイド(対象者の元)で働く時間を増やしたいですね。
ますます進む超高齢社会を乗り越えるには、看護師の更なる活用が必要不可欠だと考えています。
また、いいケアとそうじゃないケアをしても給料が一律ですし、
病院内では、良い意味で競い合って高めあおうとする雰囲気は感じられません。
モチベーションは上がらない人もでてきますよね。
教育も看護特有のパワハラもなくさないといけません。
給料をただ単純に上げることには反対の立場なのですが、
(商売ではないので難しいところですが)いつまでも昭和の大企業のような一律な給料階級で看護師がサラリーマン化してしまうのも、どうかなと思ってしまいます。
成果が問われ評価されにくいなら、ますます人は労働時間だけ気にする集団になってしまいます。
こんな環境ではプロフェッショナルな人材が少なくなるのは当然としか言いようがありません。
では具体的に、自分には何ができるのか。
私は、研究に携わるのが自らの特性に合っているので、研究を一つの専門分野にします。
まずは、まだ評価されていない、効果があると論理で証明されていない看護のケアを明らかにするため貢献したいです。
脳神経外科を始めとする頭頚部領域で働いていました。
特に脳神経疾患に関する看護師の介入については、まだまだ論文として解明されているのは少ないのが現状です。
今までやっていたこの看護師のケアは、
こんなにも患者の回復に関わっているんだ、
こんな効果が期待できるんだ
と、成果を表現したいと取り組んでいます。
そうすれば、その病棟で働いている看護師の方々を正しく評価するため、
制度やルール、巡り巡って職場環境も改善できます。
何より、明らかになった看護のケアを通して、
患者への効果的で最善のサービスを提供できると思うのです。
自分たちの貢献を世界に訴えて生き残るため、食らいつく勢いが必要でしょう。
まず目先の目標をクリアできるように努力します。
自分の能力を上げる
社会人として、資本主義国家に住む働き手として、知的労働者として、
そしてNsとして学びが必要だと思います。
気持ちの持ちようや疲労、感情的になることでサービス業ではないと感じるのであるなら、
自分の仕事の態度といわゆるストレスマネジメントができたらいいと思います。
このような自己管理も学んで、さらっとできたらカッコいいですよね。
専門分野と自分の武器を伸ばすのは前提として、社会の一員として教養や時事問題は押さえておくのも必須ではないでしょか。
本を読んだり、人に教えたり、
自分より知っている人に話を聞きに行くことであったり、
芸術を楽しんだり、
好きな人と過ごす時間であったり、
アニメ見たり、
アイマスをしたり(笑)、
人生を悔いなく輝いて生きる、ことだと思います。
それらの関わりを通じて、サービスに携わる嗅覚が研ぎ澄まされて、これまでの見方を新しく想像してくれるはずです。
そして、仕事の仕方、成果を上げる正しいやり方を身に着けていきたいものです。
これから上のレベルに進むためには、他業界のように管理や教育のプロフェッショナルの看護師が増えていかなければならないでしょう。
先ほど紹介したAmerican Jounarl of Nursingの一文には、さらに専門職の規範が続いています。
行動の自由と、専門職としての継続的な成長と経済的安全を供与することによって、実践家への補償に努める
最善のサービスをできるように、看護師らが努めるべき姿です。
本当に的確で深い言葉だなと感じます。
私も現場の大変さは分かっているつもりですが、まだまだ理想論にすぎないと感じています。
是非ご意見お聞かせください!
臨床を大切に頑張ります!
*1:生命を永らえさせるという訳ではありません。力づけ、励まし、慰め、労り、誠意を持って尽くすことです
アニメの車窓から(1)
一見関係ない切り口から看護を考えてみようという、個人的な内容です。
私はアニメを見るのが好きで、純粋に物語が楽しいだけでなくアニメから色々気づかされたことが多くありました。
医療をテーマにしたアニメや漫画も多く人気を博しています。
王道ではブラックジャックなどでしょうか。
コウノトリも特に最近話題になりましたね。
見てはまった人は多いのではと思います。
さて今回は、看護(医療)に直接関係ない物語から、医療者の方に、またそうでない方にとっても、
考えるきっかけを与えてくれるシーンやテーマを含んでいるおススメのアニメを取り上げていきたいと思います。
最初に紹介したいのは、“THE IDOLM@STER(アイドルマスター)”です。
略してアイマスと言うことが多いです。
看護と聞いてこれとは、
ちょっ待てよ!(笑)
と思われて当然かと思いますが、ご安心ください。
老若男女問わずお茶の間で見える、かなりの名作アニメです。
まず作品について簡潔にポイントを。
アイマスは、アイドルが流行っていた21世紀初頭に登場したアイドル育成ゲームが始まりで、自分がプロデューサーとなり彼女たちを支えるという設定になっています。
私も、アイドル文化が嫌いで抵抗があったのですが、今ではすっかりファンの一人です(笑)
アイドルのアニメ・ゲームと聞くと、ドロドロとした芸能界やオタク向けなど敬遠する印象があるかと思いますが、このアニメはそんなことはなくとにかく爽やかです。
アイドルを夢見て努力する女の子たちが、彼女たちを支えるスタッフと一緒に、社会に愛させるアイドルになるまでのサクセスストーリーです。
765(ナムコと読みます)プロと言う、無名でそれもオンボロ弱小事務所から這い上がるのは、まさに圧巻です。
会社の看板の“765”の文字は、まさかのビルの内側からテープ等を使って作っています(笑)
お金がないのは事実なのですが、見かけだけにこだわらず中身で正々堂々勝負していく強い信念がこの会社にはあります。
何がそんなに面白く、強くお勧めしたいと思うのか。
それは、各キャラクターが互いに高めあいながら、それぞれの目標に向かって努力している姿に心を打たれるからです。
まさにチームの協調性と各個人の専門性とのバランスが取れた理想な生産性の高い集団であると分かります。
また、心温まる人情物語とキャラクターから元気をもえるのです。
私も、仕事に疲れ切って落ち込んでいた時に、何回背中を押してくれたか分かりません。
7話では、懐かしき古き良き日本家屋や兄弟愛にほっこりします。
看護師の仕事は、人間に深く関わる必要があるので心の体力というか精神力も大切で、また、チームで患者さんらの健康問題の定義をして解決することに力を注ぐ必要があります。
私は、責任感が強かったものの恥ずかしい話、不器用で過激な看護師でした。
スタンドプレーの傾向も強かったため、円滑な他者とのコミュ―ケーションや良好な関係をつくるのが得意ではなかったのです。
多忙で緊張感の高い環境でいると、どうしても心が穏やかになれない時がありました。
どれだけ職場の方々にお世話になったことか…
ですが、彼女たちは、失敗を糧にして、心もアイドルとしても強く輝いていきます。
個性や目標もそれぞれですが、何が自分たちのファンに求められているのか、本質である“目の前のファンの一人を笑顔にする”ためにどうすればよいのか考え行動する集団になっていきます。
家庭環境やタイプや抱えている問題もそれぞれですが、皆人間としてそれぞれ違った素敵な魅力を持っています。
行動していく彼女たちの姿は、
チームや仲間に信頼され、目の前の患者さんの健康に対して、病棟看護師として何が求められているのか、を考えるきっかけを与えてくれました。
同時に、人として魅了のある周りを引き込める看護師に私もなりたい、と思ったのでした。
最後にもう一つ、中でも私の一番好きなアイドルの女の子は、トップアイドルになるのを目標に努力しています。
陰で誰よりも努力して、彼女のスタイルで輝いている。
プロデューサーである自分のことを好いてくれて、私は親になった気持ちで見ています(笑)。。。(誰のことかすぐ分かる方もいるかもしれませんね)
彼女のvitalityが大好きで、
強いchallengeを与えてくれたり、
自分のスタイルでいいんだとポジティブにさせてくれます。
彼女たちは心も集団も健康なのだろうなあと思います。
厳密に書くと、アイマスは15年以上長いコンテンツなので、主旨に外れない程度に簡単にまとめました。
アニメ全25話を順に見ていただくのがおススメですが、特に初めての方で1話のみの視聴で楽しめるとしたら、7話が良いかなとも思っています。
個人的バイアスがありますが、やはりこのアニメは必見です。
家族や友達、恋人とも気持ち良く見れます。
本も大切でもちろん面白いですが、
看護の仕事や人間関係で疲れた時、元気をもらいたい時、ご飯食べながらでいいです。
是非見てみてください。
それと、全国の看護師でプロデューサーの皆さん、是非一緒に仲良くやっていきましょう(笑)
最近の反省
大概の店内の食品配置はいつも非計画的だよなぁと感じながら、食品棚の横を通っています。
たまに行く店の冷蔵食品コーナーなのですが、これなんて私の感性からしてもどうして柱の位置を考えてから機材を置かなかったのかと思ってしまいます(笑)
まあ使いずらいでしょうが、こちらの人のソフト面の考え方が見えて面白いですよね。
さて、書きたいと思っていた気持ちはあったものの、いつのまにか前回から3か月ほど経っていました。
考察している内容はいくつか温めていたのですが、忙しさを言い訳にしてブログも、そして勉強も疎かにしていて、少しづつ気持ちが落ちていました。
最近の自分の時間の使い方と学ぶ姿勢が良くなかったなぁ…
反省して行動を修正しようと思い、振り返りをした次第です。
まず一つは、自分はモチベーションを保ち計画的に行動するために他者を上手く自分のtriggerに取り入れてるのが効果的と改めて気づきました。
誰でも頑張っている人と関わることで気持ちを高めれる訳ですが、特に、私は他者からのプレッシャーを体感できる形で自分に与えないとなかなか動かないタイプなので(笑)
周りにどんどん自分の夢や目標を公言しといて、良い意味で言って“頑張っている人なんだな”と思ってもらえるようにしています。
相手にそのことを認識させることができたら、向こうから話があった時に備えて勉強する必要があるし、何か相談があった時に専門に勉強している身として緊張感を保つことが可能になります。
もちろん、自慢でもなんでもなくあくまで謙虚さは忘れてはいけません。
その分しっかり有言実行するよう努力しようと思います。
少し前ある課題に取り組んでいた時は、相手と期限を厳格に早めに設定してその期間の計画を立てていました。(当たり前のやり方なのですが)
その頃は結構忙しかったですが、定期的にフィードバックを貰える仕組みだったので助けられました。
計画性に欠ける自分でもなんとか結果は残せたかなと手ごたえを得られた瞬間でした。
他者の方の存在をお借りして、上手ーく自分の行動に生かせていきたいです。
モチベーションを上げるもう一つの方法は、やっぱり自分の夢へ繰り返し繰り返し立ち返ることに尽きます。
ちょっとここ数週間は、手帳を使用したり計画表を見て生活していませんでした。
そのため、何のために今これらをやっているのか、とか何が私に求められているのか頭を使ってなく、
なんと非生産的で不健康な時間を過ごしたのかと無気力になり、そんな自分を元に戻すにもリセットもかけるのも面倒くさいとすら思ってしまいました。
そんな内省する時間が少ない時、写真を見ることはとても私にとって効果的でした。
このままの体たらくで自分はいいのか!?
と思いを取り戻すきっかけになり、自分の未来設計図やmentor達の言葉を思い出させてくれました。
色々やる気を出さしてくれるそれらを見返すと、心のコンロが着火されるというか(笑)
こんなところで止まっていちゃいけないと前向きな気持ちにさせてくれます。
とにかく一番目先で大きな目標である、社会に価値のある論文をまず1本しっかり完成させる準備のため、必要な勉強をします。
溜まっている課題を今週に解決します。
足が遠ざかっているランニングを明日再開します。(お金に余裕があればランニングシューズを買いたい…)
英語の勉強を今日寝る前に少しでもします。
そして睡眠時間確保のため今日は寝ます(笑)
待ってろ!世界 。
日本がAustraliaに与えた影響 歴史を考える(3)
これまで、日本が英国意識の離脱に関与したことや戦争により対日不信を招いた過去について記載しました。
3つ目として最後は、“アジア太平洋地域の特殊性を持った国家”を築いた点を挙げたいと思います。
なるべく俯瞰的に述べたつもりですが、ややこしい事象や一概に言えない意見も多くあります。素人レベルの抽象的な考察で落ち着いてしまっているかもしれませんが、ご理解いただけたら幸いです。
3)アジア太平洋地域の特殊性を持った国家を築いた
Australiaは、日本によってアジア地域における特殊性を寄与された国であると私は感じました。
その理由は、第二次世界大戦から今日に至るまでどのように二ヶ国間関係が発展したのかを振り返ることで見えてきます。
話を戦前に戻していきます。
さて、米国は、太平洋の広範を支配した日本に反撃を開始し、1942年Midway海戦で勝利します。
この敗戦で、日本は太平洋での主導権を失い、Australiaへの攻撃は地理的にも不可能になりました。
Australiaは、日本攻撃のための米国の拠点の1つとして機能します。日本の歴史に関わり深いDouglas MacArther:マッカーサー元帥もかつて一時的にAustraliaの地で指揮を行っていました。*1
太平洋戦争は日本が敗れ終戦します。
前回触れた捕虜の扱いが、日本への敵対心をより強く形成させました。
戦後、開かれた極東国際軍事裁判では、多くの日本の政治家らが裁かれましたが、なかでも裁判長であったWilliam Webbは著しく非難し、世界で唯一日本の天皇の戦争責任を追及します。
実は彼はAustralia出身の裁判官でした。反日感情はこのようなところでも影響を与えたことが分かります。*2
その後もAustraliaは日本を信用せず、万が一に備え米国との国防協力を依頼します。
こうして1951年にANZUS条約が締結(1952発効)します。
日本が社会復帰したサンフランシスコ平和条約と同年です。
この条約は、太平洋における米国の安全保障を認めたものです。日本における日米安保条約に似ています。
この時点でもAustraliaの安全保障の後ろ盾の意識が英国から米国へ移っているのが伺えます。
しかし、転機が訪れます。
まず1つは冷戦です。
冷戦がヨーロッパからアジアに飛び火し朝鮮戦争が勃発すると、米国は日本の国際社会の復帰と資本主義国家としての早期独立を目指す方針に転換しました。
Australiaに対しても、対日講和を申し込みます。
警戒感が強かったAustraliaは、重い腰をなかなか上げない様子でしたが、朝鮮半島、中国、ソ連の社会主義のほうが日本より脅威であると認識し始めます。そのためAustraliaも朝鮮戦争に参戦しています。
Australianiとっては、経済関係を強くすることで日本が経済的に独立し社会主義の防波堤になること。
また、資源保有国なので資源の乏しい日本との貿易は相互補完の理由から利益があると考えました。
反対に、日本にとっても、国の発展と今後の国際社会復帰の道筋につながる狙いがありました。
貿易や交流が再開され、次第に距離が近づきます。
その流れから、日豪通商協定を1957年日本と提携しました。
次第に、Australiaの外交意識が“アジア”に移行し始めます。
さらに、時代背景と他国の外交政策が背中を後押しました。
例えば、1961年、最大の貿易国であり、一番の友人国であった英国がEUに加盟しました。これは、英国との繋がり、ひいては英豪貿易の希薄化を意味しました。
これにより、Australiaはアジア貿易の1つとして日本との結びつきを加速させます。そして、1966年には、日本が最大の輸出相手になっています。
着実に“アジアに重点”が置かれ始めてきました。
Australiaは鉄鉱石を日本に輸出し、日本は工業製品を売りに出しました。
日本の高度経済成長が成功したのは、Australiaからの安定した鉄鉱石の輸出があったことも一つの影響だったということができると思います。*3
ただ、最大の転機は何といっても経済関係の結びつき強化でしょう。
昔からAustraliaは今も変わることなく、資源を輸出し資本や技術を買う資源流出国・資本流入国です。
1970年代アジア全体が経済成長を遂げ、またアジアからの移民を積極的に多く受け入れ、貿易と文化交流が発展しました。
とりわけ、アジアで一番の先進国である日本は、アジア政策を進めるに当たり欠かすことのできない存在になります。
アジア太平洋経済協力:APEC構想の発端は、日本とAustraliaが関係しています。
APECは、一橋大学の小島清一氏とAustralia国立大学のGeoffey Crawfoedらが作った経済会議や思想が元の1つになっています。
Crawfoed氏は、そもそも日本が戦争開始した原因が安定した資源確保を約束できなかったためと主張し、日本との貿易強化を提案していました。
ちなみに、さらに興味深いことに、彼は1957年の日豪通商協定の草案も作成した人物でもあります。
Australiaは太平洋諸国に経済的価値を見出し、アジアとしての国家構築を進めていきます。
お互いに太平洋での自由貿易による経済発展のvisionを共有したのです。
しかも、Australiaは反共産主義に対抗が目的だった外交政策から、アジア太平洋の経済や文化の発展を意識するようになります。
もちろん多くのアジア各国がAustraliaとそれぞれ交流を展開していますが、日本の存在が“アジア地域の一体化を促した”と言えるのでしょうか。
アジア地域を占領し、その後敗戦を経験しましたが、そこから世界史上類を見ない速度で再建し経済成長を遂げた日本。
感謝なことに多くのアジアの国々より恵まれています。
独特の文化と歴史を持った国です。
私は日本に対して感謝と日本人としての誇りを感じています。
Australiaは、白豪主義も未だに根深く残っている白人国家ですが、多様性を取り入れ、世界を代表する多民族国家となりました。
国内で国際問題を内包しているような巨大な国です。
アジアの地域に所属しつつも、その成り立ちや情勢を考えると個性的な国と言えると思います。
日本とAustraliaはお互い太平洋で特殊性が見られる国であり、アジアの繁栄と安定に関して欠かすことのできない関係であると考えます。*4
それにしても、アジアの脅威を植え付けたのも、そしてそのアジアに可能性を感じさせた要因の1つになったのも巡り巡って日本だったのは、何とも皮肉と言うか複雑な気持ちになりますね…
さて、3回に分けてのAustraliaと日本の背景についていかがでしたでしょうか?
後半はあまり論理的に書けておらず、様々な意見を持たれるだろうと思います。貿易摩擦問題やAboriginal Austsliansなど触れなかった点や考慮できていない点もあるので、何かありましたら教えていただきたいです。
調べていくと、二国間で上手くいっていない課題もたくさん存在しているようです。正直反日感情は未だ存在します。
医療や政治制度など示唆に富んだ内容もあると感じています。
そこからどのような考察が得られるのか、そこから何が得られるのか、次回以降記載できたらと考えています。
改めて、対象の歴史背景と物語を知りその今日の動向・思考を捉えるのは難しい(笑)ですが興味深いですね。
結局、次にどう生かすかが重要ですし、看護において対象者とその集団を観る時によく似ている営みなのだと思っています。
最後に、二国間の関係改善した過程や発展したのは、あくまでもお金や政治家だけの問題ではないと考えている、ということは断っておきます。
民間レベルで、学者や企業の交流、二国を愛した人、旅をした人、一般の人、それも名も残っていない方々が得た人と人の長年の交わり。
そして、特に19世紀後半に遥か遠くAustraliaに渡たり住み、苦労と交流を重ねてきた日本人の先人の存在も忘れてはいけないでしょう。
*1:話は脱線しますが、Midway海戦はまさに運命を分けた戦いでした。ある意味今日における日本組織の状況を象徴する各出来事が勝敗を分けます。
またMacArtherは優れたleadershipを持っていました。ただ病的とも言えるような一面もあったことが彼の物語を見ると分かります。伝記としても面白いです。興味のある方は是非、専門家の資料や書籍をご覧ください。
*2:反日家として有名でしたが、彼に関しては色々議論があるテーマですので詳しくは専門家の意見を参照してください。
*3:他の時代背景の例としては、中東戦争も外せません。
英国の求心力の低下や冷戦の複雑化、中東の混乱もAustraliaのアジアの外交政策に影響を与えました。
加えて、英国の植民地支配体制を終わらせたことを意味するスエズ運河以東の撤退や米国の太平洋政策も大きな契機になったようです。
*4:…特殊性という表現も適切ではないかもしれません。neutralやoutsideのような存在とでも言えるのでしょうか?二国の異質を誇張するつもりも他国と優劣を比べる意図はありません。
医療論文のabstractの読み方
英語の医療論文を読むようにあたって、要約:abstractの内容を素早く的確に理解するやり方があります。
特に臨床で働いていて、チームで簡潔に共有する時は便利だと思います。
全文を精読をすることももちろん欠かせませんが、abstractから素早く概要を把握することを目的とするならばとても有効だと思います。
また、内容理解だけでなく論文の内容を簡潔にpresentationする時にも応用できます。
ただ、そう言っている私も社会人になってからメンターに教わり、学生の頃は聞いたこともありませんでした。
確かに、専門の方が記載しているサイトはありますが、具体的なやり方を説明しているものは多くありませんでした。
また、多くの方が愛読されているいくつかの論文関係の書籍には内容が書かれているものの、多くの看護大学・医療施設等では学んでおらず、周知されていないようです。
そこで、教わったその手順を明確にまとめるとともに、私自身取り組んでみて感じた点も含めてご紹介したいと思います。
PICO framework
このframeworkは、世界共通の医療論文の概要を知る際のツールになります。
P; Population or Patient Problem,
I; Intervention,
C; Comparison,
O; Outcome,
の4つのpartの頭文字からなります。
文献や場合によっては、PECO(この場合はIがE; Exposureに置き換わっている)やPICOC, PIEなどと形態が変わることもありますが、ポイントを抑える本質は変わりません。
参考までにPubMed Healthでは以下のように紹介されています。
さらに要点をまとめるため、その4個をさらにそれぞれ2つにして合計8個のポイントに分けます。
P; Population or Patient Problem,
➀研究の対象となった患者(どんな患者が対象?)
②研究の対象者人数(合計何人参加?)
I; Intervention,
③介入方法(どんな介入?)
④介入群の人数(合計何人でどのように選ばれた?)
C; Comparison,
⑤対照方法(どんな治療を実施?)
⑥対照群の人数(合計何人?)
O; Outcome,
⑦評価指標(アウトカムは?)
⑧結果(アウトカムの実際は?)
これら8つのポイントを押さえていきます。
私も最初は上手く理解できなかったのですが、実際に使用してみるのが一番の近道になりました。
昨年話題になった日本発の論文を例に挙げてみます。
私もこの論文を紹介されて読んだ時はとても感動しました。(いつかこのような研究ができるようになりたいな。頑張ろう!)
PICO frameworkは論文の要約部分を見るものです。
そのため見ていただきたい箇所は、要約:abstractところになります。
(Perpuse:研究目的、Mterials and Methods:研究デザインや方法、Results:結果、Conclutions:結論がこれらにあたります)
(上記のURLのページでは本文は見れませんが、Science Directにsign inしたら見れます。是非本文もご覧ください)
この論文は、“ICUで働くCNSやCNは人工呼吸器の患者の死亡率に影響を与えているのか”との内容が書かれています。
さて、まずP; Population or Patient Problem,ですが、研究の対象となった患者(どんな患者が対象?) 研究の対象者人数(合計何人参加?)を確認します。
Mterials and Methodsの一行目に、
Using a Japanese national in-patient database, we identified 45,620 patients who were admitted to an intensive care unit (ICU) and received mechanical ventilation within 2 days of hospital admission between 1 April 2014 and 31 March 2015.
とあり、研究の対象となった患者は、日本のICUで2日間以内に人工呼吸器を使用した患者で、研究の対象者人数は45620人と書かれています。
次にI; Intervention,では、介入方法(どんな介入?) 介入群の人数(合計何人でどのように選ばれた?)を見ます。
Resultに、We examined 8955 patients in 134 hospitals without CN/CNSs and 36,665 in 284 hospitals with CN/CNSs
とあり介入方法は、CNとCNSがいる284施設で、介入群の人数は36665人の患者です。また論文の題名にあるように、A retorospective cohort studyで後ろ向きのコホート研究になります。
さらに、C; Comparison対照方法(どんな治療を実施?) 対照群の人数(合計何人?)では、上記と同箇所に記載されています。
対照方法は、134のCNとCNSがいない施設で、対照群の人数は、患者8955人となります。
最後に、O; Outcome 評価指標(アウトカムは?) 結果(アウトカムの実際は?)です。
Perposeの最後の箇所の、with 30-day mortality for mechanically ventilated critically ill patients.
がどうなっているのか評価したので、評価指標は、人工呼吸器患者の30日間死亡率を指し、結果は、ResultsとConclutionsの通り、介入群であるCNとCNSがいるIUCは有意に30日間死亡率の減少に関係していた、ことが分かります。
表にするとすっきりします。
P; population | どんな疾患が対象? | 日本のICUで2日間以内に人工呼吸器を使用した患者 |
合計何人が参加? | 45,620人 | |
I; intervention | どのような介入? | CNとCNSがいる284施設 |
介入群は何人? | 36,665人 | |
C; comparison | 対照群の治療は? | CNとCNSがいない134施設 |
対照群は何人? | 8955人 | |
O; outcome | アウトカムは? | 人工呼吸器患者の30日間死亡率 |
アウトカムの実際は? | 介入群であるCNとCNSがいるIUCは有意に30日間死亡率の減少に関係していた |
私も指導を受けてみて感じたコツは、数字の箇所を読むことです。数字の前後には重要な文章があると思います。
また、やはり確実な英語論文が分かるようになる方法は、分からない単語や文法は調べて丁寧に文章を読むに尽きます。出てくる単語も話し言葉とは違い(日本語でも同じですが)難解な印象を私も持ちましたし、専門用語は調べるしかありません。
ですが、数件の論文を読んだ後は、同じ単語や規則が見えたり文脈から言葉の意味が分かるようになったり、楽に感じてくるはずです。
もし、簡潔に他者に論文の内容を伝えるときは、PICOの8か所を文章化するだけです。
この場合では、
この研究は、ICUで働くCNSやCNと人工呼吸器の患者の死亡率を調べた後ろ向きのコホート研究です。
(P):研究の対象は、日本のICUで2日間以内に人工呼吸器を使用した患者で、研究の対象者人数は45620人でした。
介入は、(I):CNとCNSがいる284施設で調査し、介入群の人数は36,665人の患者でした。
対照群は、(C):134のCNとCNSがいない施設で、その人数は、患者8955人でした。
アウトカムは、(O):人工呼吸器患者の30日間死亡率を定め、結果は介入群であるCNとCNSがいるIUCは有意に30日間死亡率の減少に関係していたことが分かりました。
と述べることができます。
シンプルですがまさにその体の通り要点を簡潔に述べているpresentationになります。
このframeworkが全てきっちり当てはまる訳でもありません。ただ、要約部分理解の1つの方法として有効ではないかと思います。
英語が苦手だった私でもやれば次第に英語論文が読めるようになりました。
本当に良い英語論文は、とても完成された文体であり、designそのものが論理的で知的で美しいと気づくことができます。
一番論文の理解の助けになるのは、何より数を読むことです。
最近論文を読んで考えるのを怠っていたなあと反省。。。。再起します。
日本がAustraliaに与えた影響 歴史を考える(2)
“日本がAustraliaに影響を与えた3つのこと”に焦点を当て、私が感じた視点を記載しています。前回の続きです。
2)戦争をした歴史があること
2つ目に衝撃を受けたことは、かつて日本軍がAustraliaに戦争を仕掛け、悲しみや苦しみを与えてしまった事実がある、ということです。
先の大戦で敵国同士だったことは私は知っていました。ですが、参考文献を読みこれほど大きな被害を与えていたことは知りませんでした。本当に無知を思い知らされました。
言葉に配慮しながら記載していこうと思います。
前項で述べた極東貿易親善使節団ですが、その結果通商協定が結ばれ、日豪貿易がより盛んになりました。日本を警戒しつつも、経済交流は行っていたのでした。
Australiaは主に羊毛を輸出し、日本は絹布を提供しました。1935年時点で、Australiaにとって、日本は輸出の14%近くを占める貿易国になっています。
日本軍が真珠湾を攻撃した1941年。
日本はAustraliaとも開戦することとなり、事態は一気に変容します。
1942年、Singaporeにあった英国の海軍基地が陥落しました。ここは英国にとっての大切な極東の海軍基地であり、同時にAustraliaにとっては本土防衛の要でした。緊張感が最高潮に達しました。
Singapore海軍基地陥落により、日本空軍は更に南下が可能になりました。
そして、Darwinへの大規模の空爆、BroomeやTownsvilleへの攻撃。Sydneyも爆撃されています。
Australiaの歴史の中で、本土が他国に攻撃されたのはこの戦争しかありません。
そして、日本軍による捕虜の扱いが一番Australiaを震撼させました。
泰緬鉄道(日本軍が建設したタイとミャンマーを結んだ鉄道)での虐待。
Sandakan Death Marches(サンダカン死の行進)
その他の強制労働も存在します。日本軍により計約2万2000以上のAustralia人捕虜が捕まり、4割近くは拘留中に亡くなったと言われています。
こうした背景から、Australia人は残虐なイメージを日本人に持ち、恐怖を受けたのでした。
皮肉にも、日本はこの対戦においても、国家や国民意識を形成する要因の1つとなったのです。
私は、これらのことを知った時に、戦争の恐ろしさを改めて感じました。
戦争を振り返る時、日本では沖縄や長崎、広島を始めとした場所でー日本本土、満州やその他の地域にいた全ての人が苦しみましたー被害に遭い、多くの方が亡くなったことを私たちは知っています。
同時に、日本はかつて加害する立場にもなったこと、また、アジア諸国(米国)に対して侵略し、同じようにそこで多くの方が亡くなったことを忘れてはいけないと思います。
4月25日、AustraliaにはANZAC Day(アンザックの日)という国民の日があります。これは、起源は第一次世界大戦ですが、第二次世界大戦の戦死者を追悼する日でもあります。
今年初めてこの行事に参加することができ、今生活できている平和に感謝し、戦争について考える機会となりました。
CanberraにあるAustralia War Memorial(オーストラリア戦争記念館)にいつか足を運びたいです。
Australiaとの歴史は、私たち日本人にとって忘れてはならない事実を教えてくれると思います。
次回がまとめになります。
このような状況から、どのように関係を築きなおし、お互い発展していったのか。
そこから得られる二国間の重要性に触れていきたいと思います。