日本がAustraliaに与えた影響 歴史を考える(3)
これまで、日本が英国意識の離脱に関与したことや戦争により対日不信を招いた過去について記載しました。
3つ目として最後は、“アジア太平洋地域の特殊性を持った国家”を築いた点を挙げたいと思います。
なるべく俯瞰的に述べたつもりですが、ややこしい事象や一概に言えない意見も多くあります。素人レベルの抽象的な考察で落ち着いてしまっているかもしれませんが、ご理解いただけたら幸いです。
3)アジア太平洋地域の特殊性を持った国家を築いた
Australiaは、日本によってアジア地域における特殊性を寄与された国であると私は感じました。
その理由は、第二次世界大戦から今日に至るまでどのように二ヶ国間関係が発展したのかを振り返ることで見えてきます。
話を戦前に戻していきます。
さて、米国は、太平洋の広範を支配した日本に反撃を開始し、1942年Midway海戦で勝利します。
この敗戦で、日本は太平洋での主導権を失い、Australiaへの攻撃は地理的にも不可能になりました。
Australiaは、日本攻撃のための米国の拠点の1つとして機能します。日本の歴史に関わり深いDouglas MacArther:マッカーサー元帥もかつて一時的にAustraliaの地で指揮を行っていました。*1
太平洋戦争は日本が敗れ終戦します。
前回触れた捕虜の扱いが、日本への敵対心をより強く形成させました。
戦後、開かれた極東国際軍事裁判では、多くの日本の政治家らが裁かれましたが、なかでも裁判長であったWilliam Webbは著しく非難し、世界で唯一日本の天皇の戦争責任を追及します。
実は彼はAustralia出身の裁判官でした。反日感情はこのようなところでも影響を与えたことが分かります。*2
その後もAustraliaは日本を信用せず、万が一に備え米国との国防協力を依頼します。
こうして1951年にANZUS条約が締結(1952発効)します。
日本が社会復帰したサンフランシスコ平和条約と同年です。
この条約は、太平洋における米国の安全保障を認めたものです。日本における日米安保条約に似ています。
この時点でもAustraliaの安全保障の後ろ盾の意識が英国から米国へ移っているのが伺えます。
しかし、転機が訪れます。
まず1つは冷戦です。
冷戦がヨーロッパからアジアに飛び火し朝鮮戦争が勃発すると、米国は日本の国際社会の復帰と資本主義国家としての早期独立を目指す方針に転換しました。
Australiaに対しても、対日講和を申し込みます。
警戒感が強かったAustraliaは、重い腰をなかなか上げない様子でしたが、朝鮮半島、中国、ソ連の社会主義のほうが日本より脅威であると認識し始めます。そのためAustraliaも朝鮮戦争に参戦しています。
Australianiとっては、経済関係を強くすることで日本が経済的に独立し社会主義の防波堤になること。
また、資源保有国なので資源の乏しい日本との貿易は相互補完の理由から利益があると考えました。
反対に、日本にとっても、国の発展と今後の国際社会復帰の道筋につながる狙いがありました。
貿易や交流が再開され、次第に距離が近づきます。
その流れから、日豪通商協定を1957年日本と提携しました。
次第に、Australiaの外交意識が“アジア”に移行し始めます。
さらに、時代背景と他国の外交政策が背中を後押しました。
例えば、1961年、最大の貿易国であり、一番の友人国であった英国がEUに加盟しました。これは、英国との繋がり、ひいては英豪貿易の希薄化を意味しました。
これにより、Australiaはアジア貿易の1つとして日本との結びつきを加速させます。そして、1966年には、日本が最大の輸出相手になっています。
着実に“アジアに重点”が置かれ始めてきました。
Australiaは鉄鉱石を日本に輸出し、日本は工業製品を売りに出しました。
日本の高度経済成長が成功したのは、Australiaからの安定した鉄鉱石の輸出があったことも一つの影響だったということができると思います。*3
ただ、最大の転機は何といっても経済関係の結びつき強化でしょう。
昔からAustraliaは今も変わることなく、資源を輸出し資本や技術を買う資源流出国・資本流入国です。
1970年代アジア全体が経済成長を遂げ、またアジアからの移民を積極的に多く受け入れ、貿易と文化交流が発展しました。
とりわけ、アジアで一番の先進国である日本は、アジア政策を進めるに当たり欠かすことのできない存在になります。
アジア太平洋経済協力:APEC構想の発端は、日本とAustraliaが関係しています。
APECは、一橋大学の小島清一氏とAustralia国立大学のGeoffey Crawfoedらが作った経済会議や思想が元の1つになっています。
Crawfoed氏は、そもそも日本が戦争開始した原因が安定した資源確保を約束できなかったためと主張し、日本との貿易強化を提案していました。
ちなみに、さらに興味深いことに、彼は1957年の日豪通商協定の草案も作成した人物でもあります。
Australiaは太平洋諸国に経済的価値を見出し、アジアとしての国家構築を進めていきます。
お互いに太平洋での自由貿易による経済発展のvisionを共有したのです。
しかも、Australiaは反共産主義に対抗が目的だった外交政策から、アジア太平洋の経済や文化の発展を意識するようになります。
もちろん多くのアジア各国がAustraliaとそれぞれ交流を展開していますが、日本の存在が“アジア地域の一体化を促した”と言えるのでしょうか。
アジア地域を占領し、その後敗戦を経験しましたが、そこから世界史上類を見ない速度で再建し経済成長を遂げた日本。
感謝なことに多くのアジアの国々より恵まれています。
独特の文化と歴史を持った国です。
私は日本に対して感謝と日本人としての誇りを感じています。
Australiaは、白豪主義も未だに根深く残っている白人国家ですが、多様性を取り入れ、世界を代表する多民族国家となりました。
国内で国際問題を内包しているような巨大な国です。
アジアの地域に所属しつつも、その成り立ちや情勢を考えると個性的な国と言えると思います。
日本とAustraliaはお互い太平洋で特殊性が見られる国であり、アジアの繁栄と安定に関して欠かすことのできない関係であると考えます。*4
それにしても、アジアの脅威を植え付けたのも、そしてそのアジアに可能性を感じさせた要因の1つになったのも巡り巡って日本だったのは、何とも皮肉と言うか複雑な気持ちになりますね…
さて、3回に分けてのAustraliaと日本の背景についていかがでしたでしょうか?
後半はあまり論理的に書けておらず、様々な意見を持たれるだろうと思います。貿易摩擦問題やAboriginal Austsliansなど触れなかった点や考慮できていない点もあるので、何かありましたら教えていただきたいです。
調べていくと、二国間で上手くいっていない課題もたくさん存在しているようです。正直反日感情は未だ存在します。
医療や政治制度など示唆に富んだ内容もあると感じています。
そこからどのような考察が得られるのか、そこから何が得られるのか、次回以降記載できたらと考えています。
改めて、対象の歴史背景と物語を知りその今日の動向・思考を捉えるのは難しい(笑)ですが興味深いですね。
結局、次にどう生かすかが重要ですし、看護において対象者とその集団を観る時によく似ている営みなのだと思っています。
最後に、二国間の関係改善した過程や発展したのは、あくまでもお金や政治家だけの問題ではないと考えている、ということは断っておきます。
民間レベルで、学者や企業の交流、二国を愛した人、旅をした人、一般の人、それも名も残っていない方々が得た人と人の長年の交わり。
そして、特に19世紀後半に遥か遠くAustraliaに渡たり住み、苦労と交流を重ねてきた日本人の先人の存在も忘れてはいけないでしょう。
*1:話は脱線しますが、Midway海戦はまさに運命を分けた戦いでした。ある意味今日における日本組織の状況を象徴する各出来事が勝敗を分けます。
またMacArtherは優れたleadershipを持っていました。ただ病的とも言えるような一面もあったことが彼の物語を見ると分かります。伝記としても面白いです。興味のある方は是非、専門家の資料や書籍をご覧ください。
*2:反日家として有名でしたが、彼に関しては色々議論があるテーマですので詳しくは専門家の意見を参照してください。
*3:他の時代背景の例としては、中東戦争も外せません。
英国の求心力の低下や冷戦の複雑化、中東の混乱もAustraliaのアジアの外交政策に影響を与えました。
加えて、英国の植民地支配体制を終わらせたことを意味するスエズ運河以東の撤退や米国の太平洋政策も大きな契機になったようです。
*4:…特殊性という表現も適切ではないかもしれません。neutralやoutsideのような存在とでも言えるのでしょうか?二国の異質を誇張するつもりも他国と優劣を比べる意図はありません。