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学んだことをまとめ、看護について考えていきます。

Practice Makes Perfect.

日本がAustraliaに与えた影響 歴史を考える(2)

“日本がAustraliaに影響を与えた3つのこと”に焦点を当て、私が感じた視点を記載しています。前回の続きです。

 

2)戦争をした歴史があること

 

2つ目に衝撃を受けたことは、かつて日本軍がAustraliaに戦争を仕掛け、悲しみや苦しみを与えてしまった事実がある、ということです。

先の大戦で敵国同士だったことは私は知っていました。ですが、参考文献を読みこれほど大きな被害を与えていたことは知りませんでした。本当に無知を思い知らされました。

言葉に配慮しながら記載していこうと思います。

 

 

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前項で述べた極東貿易親善使節団ですが、その結果通商協定が結ばれ、日豪貿易がより盛んになりました。日本を警戒しつつも、経済交流は行っていたのでした。

Australiaは主に羊毛を輸出し、日本は絹布を提供しました。1935年時点で、Australiaにとって、日本は輸出の14%近くを占める貿易国になっています。

 

 

 

 

 

 

日本軍が真珠湾を攻撃した1941年。

日本はAustraliaとも開戦することとなり、事態は一気に変容します。

 

1942年、Singaporeにあった英国の海軍基地が陥落しました。ここは英国にとっての大切な極東の海軍基地であり、同時にAustraliaにとっては本土防衛の要でした。緊張感が最高潮に達しました。

Singapore海軍基地陥落により、日本空軍は更に南下が可能になりました。

そして、Darwinへの大規模の空爆、BroomeやTownsvilleへの攻撃。Sydneyも爆撃されています。

 

Australiaの歴史の中で、本土が他国に攻撃されたのはこの戦争しかありません。

 

 

 

 

そして、日本軍による捕虜の扱いが一番Australiaを震撼させました。

泰緬鉄道(日本軍が建設したタイとミャンマーを結んだ鉄道)での虐待。

*1

 

Sandakan Death Marches(サンダカン死の行進)

*2

 

 

その他の強制労働も存在します。日本軍により計約2万2000以上のAustralia人捕虜が捕まり、4割近くは拘留中に亡くなったと言われています。

 

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こうした背景から、Australia人は残虐なイメージを日本人に持ち、恐怖を受けたのでした。

皮肉にも、日本はこの対戦においても、国家や国民意識を形成する要因の1つとなったのです。

 

 

 

 

 

私は、これらのことを知った時に、戦争の恐ろしさを改めて感じました。

戦争を振り返る時、日本では沖縄や長崎、広島を始めとした場所でー日本本土、満州やその他の地域にいた全ての人が苦しみましたー被害に遭い、多くの方が亡くなったことを私たちは知っています。

 

同時に、日本はかつて加害する立場にもなったこと、また、アジア諸国(米国)に対して侵略し、同じようにそこで多くの方が亡くなったことを忘れてはいけないと思います。

 

 

 

4月25日、AustraliaにはANZAC Day(アンザックの日)という国民の日があります。これは、起源は第一次世界大戦ですが、第二次世界大戦の戦死者を追悼する日でもあります。

今年初めてこの行事に参加することができ、今生活できている平和に感謝し、戦争について考える機会となりました。

CanberraにあるAustralia War Memorial(オーストラリア戦争記念館)にいつか足を運びたいです。

 

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Australiaとの歴史は、私たち日本人にとって忘れてはならない事実を教えてくれると思います。

 

 

次回がまとめになります。

 

このような状況から、どのように関係を築きなおし、お互い発展していったのか。

そこから得られる二国間の重要性に触れていきたいと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

*1:馴染みがない方も多いかもしれませんが、多くの捕虜が過酷な労働で亡くなったとされ、世界からは悪名高いDeath Railway(死の道)の名で知られています。

*2:Australia人や英国の捕虜に行ったとされる虐待で、2500人の捕虜で助かったのは6名でした。非人道的な殺戮が行われていました。